placet experiri :: 1

出口を一つ、新しく作ってやること。すると思いがけず水が流れ始める──もとから泉がそこにあったかのように。


考えるとき、心の中で他人に対して話し込んでいることがある。「彼に対してだからこそ、いつも考えていたあのことが言えるぞ」と。しかしこの「いつも考えていたこと」が、その想像上の他人に語るとき初めて作り出されることがある、というのがここでの問題だった。(思考がいつもこうした会話形式を取るとは思わない。むしろ思考はふつう聞き手も話し手もいないところで言葉が言葉を呼んで展開していくものなのだが)

こういう他人は心の中に一人でも多く飼うのがよい。それは彼に対応する自分の人格、その人に合わせた話法、ひいては思考のモードを新たに一つ作成することに等しい。心の中で話し始めると、彼らと本当に会話したのかどうかはどうでもよくなって、実際に会う前にすでに話し終えてしまっていることも稀ではない。しかし、こうした想像上の他人を自分で一から創造する(例えばイマジナリーフレンドのような)のは難しく、実在の(ないし物語上の)人物でなければ難しい。未知の話題のきっかけを作るには適度な他者性が要るようだ。

この他者性は、友人や先生との関係という形はもちろん、飲み会や学会発表といった場という形をとることもある。そして後者の意味で私的な日記や草稿もまたその「他人」の形式の一つではあるのだが、しかし一つでしかないからこそもう何人か必要になる。たくさんの声色で歌い、様々なテンポで踊ることを覚えなければならない。

日常会話では目の前にいる人物を見据えて、少しづつ歩調を合わせながら話す。論文のフォーマットで考えるときには誰でもない者に向かって、どこまでも遠く届く速さで書く(実在の受け手、先生や査読者の顔が浮かぶときには良いものが書けない)。だが、自分にとってはどちらも極端すぎて息が詰まる。そうしていつか窒息してしまわぬようにここを作った。論文に書くには雑多すぎるが、普段の会話で話すには重厚すぎるといって、せき止められていた水脈が確実にある。そのまだ見ぬ流路をいくつか確保するために、流速を調整する必要があった。アンダンテとアレグロの間で。


ここはインターネット上というにはあまりに自閉した場所だが、とはいえ他人に開かれていなくもない。そういう場所を用意すると思いがけない仕方で初めて湧き出てくる水があり、今もそういう気分で書いている。日常的な考えごととアカデミックな研究とを連続的に捉えたときの、緩衝地帯のような場所になって欲しいと思う。