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転移性恋愛について——ラカンと読む太宰治「駈込み訴え」
(11/23(日) から発売の『転移性恋愛について』の前半部を先行公開します)ジャック・ラカンはその『転移』のセミネールの中で、プラトン『饗宴』のソクラテスとアルキビアデスのやり取りを「精神分析のセッションの報告書の一種のように捉える」(S8: 38/上38)ことによって、二人の間の愛にまつわる数々の謎を浮き彫りにしてみせた。アルキビアデスからソクラテスへの殺さんばかりの熱情の意味、にもかかわらずソクラテスはなぜアルキビアデスの愛が自分ではなくアガトンに向けられたものだと解釈したのか(cf. S8: 85/上100)、そしてなぜソクラテスは、自分も本当は愛しているはずのアルキビアデスからの愛を
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ドクトルとクランケ
手術は失敗に終わった。大事な神経を切ってしまった。それも一番助けたかった患者のだ。プツリ、と人の一生を狂わせた音がした。取り返しのつかない後遺症を負わせたドクトル。日々、治療法の解明に心血を注ぐ。一日たりとも研究を怠ったことはない。自分が植え付けた病の治し方をずっと探している。クランケは別に自分の足なんかどうでもよかった。むしろもう二度と自力で歩けない方がよかった。だって、わたしのびょうきがなおったら、わたしは病人クランケじゃなくなって、せんせいはわたしの主治医ドクトルじゃなくなってしまうもの。治らないはずがないのに、と絶望するドクトル。それもそのはず、いつしかクランケは自分の病を不治の病にす
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透察と図星
> 本当は、酔ってなどいなかったんだろう、アルキビアデス。酔っていたら、きみが話したことのすべての背後に隠された真の目的を、こんなにも見事に隠蔽する企てをできるはずがない。話の最後に、きみがつけ足しのように述べた言葉。これこそ、きみの真の目的だ。なのにきみは、それがすべての話の目的ではないかのように見せかけた。真の目的とは、ぼくとアガトンの仲を引き裂くことだ。すなわち、きみは、ぼくがきみ以外の誰も愛してはならず、アガトンはきみ以外の誰からも愛されてはならないと考えたわけだ。(プラトン『饗宴』222C-D, 中澤務訳)ひとは自分の行為の目的を自分が一番よく知っているとは限らない。行為の目的には感
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もう殺すしかなくなった。何度も何度も繰り返し刺した。起き上がって反撃してこないようにメッタ刺しにした。一切、手加減しなかった。いやできなかった、血柱が噴き上がるのを見ても。それもいつもの魔法だと思ってた。違った。もうとっくに事切れてた。声も上げずに三回くらい死んでた。お師匠さまなんて最初からいなかったんだって今更、気づいて、泣きながらそれを食べた。ひどく痩せ細って、内臓は空っぽだった。よく知っている味がした。自分が気づかないのに気づいてほしかった真理を言い当てられた師は、もう最初から答えを知っていたふりなんかしない。諸手を挙げて、自分の座っていた椅子なんか蹴飛ばして、さっきまで弟子だった者の袖
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日記執筆法/地獄行き往復切符
なに、思考は地獄であると? 一歩考え進めるごとに激痛が走る、ですか。どれどれ、見せてごらんなさい。……ああ、やめてください、今すぐそれを! おい、止めろと言っている!……失礼、取り乱しました。ですが、なんてやり方をしているのですか貴方は。それでは肩を痛めます。そんなに光を一点に集中させては目を痛めます。貴方はいつからこのやり方で?……そうでしたか。では、代わりにこれを信じるのです。日記帳を一つ用意します。日記ならもう書いている? なら話が早い。ではそこに何でもかんでも書くのです、ただそれだけです。いいですか、「何でもかんでも」とは本当に文字通りにですよ。夢日記、想像された発話、タバコを吸ったこ
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血まみれのハッピーエンド
『ひぐらしのなく頃に』の古手梨花というキャラクターのことを考えていた。彼女は無数の可能世界を記憶を保ったままループして、彼女自身とその友人たちの皆殺し、その同じ映像を延々と見せられている。映像といっても、彼女もその世界の中に登場して、その運命を変えようと毎回違うことを試してみるわけだが、最後にはいつも同じ結末になる。なのでいつも半ば諦めて観察者を決め込んでいる。もちろん、何も変えようとせず放っておくと同じ映像が延々と流れる。(彼女は別に何かのバチが当たっているわけではない。理由なんかあったら逆に可哀想だろう?)この舞台装置に関して一つ、引っかかっていた点があった。よくあるパラレルワールドものな
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普遍者とその例外
> 自分自身で一つのことに根本から関心をもち、従って、その話をすることによってほとんど必然的に他人をその関心に引き入れ、他人に伝染させて、いままでは全然存在せず、予感さえしなかった関心を作り出す──これは、すでに存在する関心を充たすよりはるかにやりがいのある仕事である、というのだった。(『ファウスト博士』上: 91, XIII)> 誘惑とは、何をすることか。騙すこと、たぶらかすことか。そうではない。キルケゴールに言わせれば、それは、相手に情熱を感染させること、みずからの情熱によって相手の中にも情熱の火を点ともすことだ。(藤野寛『キルケゴール──美と倫理のはざまに立つ哲学』115頁)少し前まで、
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ファウスト博士の嘆き
以前私はこう書いた。「ある到達点を超えると、人は自分が書きたいもののむしろ周辺で、半ば書かされているように書き、分かりやすさやポップなものへのギリギリの妥協を始めなければならない」(「傑作とその後遺症」id: 19)。しかし、この文の後半は今や誤りでなければならない。そのような妥協はアドリアンにおいて結局のところ何も産まなかったのだから。本当に言いたかったのは、「半ば書かされているように書き」というところだった。それは音符の孤絶を避けて繋がりを求めることであり、また同時に、典礼の時代において作曲家を保護していた「わたくしめが書いたのではありません」の隠れ蓑を被り直すことでもある。しかし今日、因
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作曲家の孤独と誘惑:『ファウスト博士』について
> 音楽というこの奇妙な芸術には本質的に、最初からやり直すこと、無から開始することが、いついかなる瞬間にもできるというところがある。それは自らが経てきた文化史と数世紀にわたって獲得したものを一切知らずに、自らを新たに発見し、再び創造することができるのだ。そのさいこの芸術は、歴史的な始源におけるのと同じ原始的段階を通過し、その発展の主だった山塊から外れて、孤独に、また世間とは無縁なところで、短い道程で並外れた美の高みに達する可能性を秘めている。(トーマス・マン『ファウスト博士』上: 114, VIII)あらゆる因襲を度外視し、伝統のすべての相続遺産に背を向けて、まったく新たに、無から開始すること
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内観と自己物語
「内観についての本」がホテルの部屋に置いてある。瞑想や呼吸法の本かと思って読んでみると、「自分の過去の人生を振り返って、関わってきた人々を思い起こして」とある。それは外観じゃないのか?間違っていたのは自分だった。それは自分の内であるべきだったし、自己というのは来歴をもって歴史的に存在しているべきものだった。アレキシサイミア(無感情症)は内観能力の欠如によってもたらされるという。畏れながら、内観能力なら足りていますが。いや、足りないのはむしろ、あの自己啓発本が説いていた意味での「内観」ではないだろうか。自分の思考や気分をくまなくはっきりと観ていくことができる者が、まさにその能力のゆえに失うような
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育自放棄 他者の欲望
「自分が何をしたいのか分からない」ということがそもそも可能であるために、欲求とはいかなるものでなければならないか。答えだけなら知っている。それは物語でなければならない。「なぜなら」の織糸で編まれた一遍の自己物語。欲求を持つとは作話することでなければならない。そしてその物語から醒めないことでなければならない。物語には意味を備給して育て続ける必要がある。水やりを怠ると枯れてしまうので。ネグレクトの例:どうしようもなく憂鬱な気分を、何か特定のものへと向けるのを拒むこと。その憂鬱を、自分が恵まれない境遇にいることへの不満感として捉えてやるとか、そういう工夫を怠って。現実全体を覆うこの漠然とした欠乏感を
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何がしたいの?
小学校の頃の学習塾の友達の口癖だった。困った顔でそう言って、ふざけてばかりの仲間に楽しそうにツッコミを入れていた。今ではそれが自分が独り言を言うときの口癖になっている。今度は自分に向かって、本気で困惑しながら、半ば叱責するように。「ねえ、何がしたいの?」自分が何を欲しているのか分からない。一体どこに行こうとしているのか、それが理解できない。判じ絵を解くように自分の欲求を解いている。知性を総動員して。そうして、答えだと思ったものにべっとりと貼り付いた疑念をいつまでも引きずりながら行動に移す。自分が何を考えているか分からない、ということなら起こりえない。私がそうやって考えている限り、「何を考えてい
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想念の四角い箱
だがこの「四角い箱」という言い方には嘘がある。想像イメージは個物(particular)ではないからだ。心の中に何かが湧き起こってくる。これは一体何だろうか、とじっくり観察してみる……このときひとが持っているのは感覚や気分だ。想念ではない。つまり、想念はほんらい観察できない。これは何であるか、と言いながら、その「何であるか」から独立に掴む(特定する)ことができるような「これ」が個物である。性質規定からのこうした独立性が、観察と錯覚と訂正の可能性をもたらす。例えば、最初は喉元の熱さだと思いながら観察していた「あれ」が、後から「胸やけ」というものであったと明らかになる、といったようなことが。性質規
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想念とは何か
われわれ現代人がつねに手に持っている小さな光る板、諸悪の根源。動画が流れていればその動画に、文字情報ならその情報世界の中に、われわれを虜にする電子小板……よく見てみれば、それはただのガラス板にすぎない。キャラクターだってドットの集合体じゃないか。そしてそれを見ていたのは私だ。暗い部屋の中にぐったりと横になって、多分、バックライトで顔が青白く照らされているだろう。「我に返る」とはよく言ったものだ。だがそのことにふと気づいてはふたたび電子の海に溺れていく、今度はもっと深く。ところでこのガラス板はわれわれの脳みその中にも埋め込まれていて、そいつに延々と想念を見せ続けられている。そしてそれを見ないこと
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像としての意識、意識としての像
私は私が見ているものを見る、これが意識の根本定式だと言われる。だがそれは、私は私が書き込みを入れた像を見る、ということではないか。私は私によって解釈を施された解釈済みの像を、したがってそれ以上解釈を許さない像を見る──一義的な像を。ゆえにそれが何であるかを言うことは絶対的に容易い。それは答えが絵に書いてある判じ絵の意味を答えることに等しいのだ。像の意味は自ずから-明らかである。像はそれ自身で語る。明証性とはそういうことだろう。だから私は自分自身の意識表象を見ながら、これは願望だろうか、それとも予期だろうかと考え込むことができない。それは対象の意味も私の志向も区別なく描き込まれた像である。無論、
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自分が見るものを見る
この映像の意味を答えよ、これは何に見えるか──これは樹木に触っている映像だ。私は点の結び方を答える。だが私は、映像がその仕方で読み取られている、ということをどこから知るのか。というのもその結び方それ自体は、私が見ている当の映像の中には書き込まれてはいないのだから。それでも私は渡された白紙の「点つなぎ」を見ているのではなく、それを自分で結び合わせたものを見ているのだ。諸々の点だけでなく、それの一定の読み方まで書き込まれた完成形の像を。それは絵の読み方をもあらかじめ描き込んだ絵、自らの解釈され方を自ら指定する像である。そして対象的世界というのはただ、この完成形の像の内にのみ存在することができるもの
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挿絵に対する態度
意識像アンケートの思考実験。ある人の意識経験の録画を人々に見せて、彼が見ているのが何であるかのアンケートをとる。このとき回答者は、実際の知覚をせずに、ただ知覚判断だけを担当すればよいことになる(我々はふだん知覚と知覚判断を同時に一人でこなさなければならず、だからその判断も「関心」と無関係というわけにはいかない)。このアンケートの回答者には「映像に入り込んで見ないように」というお達しが出ている。映像に夢中になるな、映像の中に開けている世界の中に入り込んで、その内側から世界を見ることのないように、と。例えば「彼が見ているこの猫は本当に存在すると思いますか、それとも当人の錯覚か幻覚だと思いますか」と
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世界を挿絵化する
「対象的世界の存在は一つの仮説である。低い確実性しかもたないと言うのではない。そうではなく私は、それはただ構成されたものであると、諸々の現れを結び合わせて初めて浮かび上がってくる絵であるとだけ述べるだろう」。こう別の哲学者は言った。懐疑論者が疑っていたのは世界の存在の真理性である。そして彼らに欠けていたのは意味の観点である。なぜ、見えたと思ったが触れられなかったものに接して「このものは実在しない、私の見間違いだった」と語らねばならないのか。見えはするが触れられないような何ものかが存在する、と語ってもよいのではないか? なぜ「猫だと思って近寄ってみるとビニール袋だった」と語らねばならないのか。「
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世界解釈学会と仮説の本質
「りんごが木から落ちることと矮星が巨星に吸い込まれること、この二つは実はある意味では同じことなのではないでしょうか? もちろんこの二つは全然別のことです、それは分かっています、だから無理を承知で提案するのですが……」二つの独立した事態がある意味では同じことではないかと提案すること、かつ、それらが同じに見えるようなある特定の観点とともにそうすること、これが仮説の本質である。「同じこと」だと見なせるのはこれまで観測された事柄とは限らない。未来の事柄を同じものとして括るとき、それは予想と呼ばれる。例えば、矮星が吸い込まれるのと光が吸い込まれるのは同じことではないか、という仕方で。仮説は検証も反証もさ
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書く不健康/読む健康
日記の必要のない一日が最も良い一日である。そう昔から確信していた。日記を書いているその時には「今日はこんな良いことがあった、これからあんなこともしてみようか」という内容豊かな一日こそが充実した良い日に思える。だが、良いことがあったのならなぜ、それに加えて「良いことがあった」と書かねばならないのか。しようと思っているならなぜ、「しようかな」とわざわざ言ってから実行するのか(あるいは結局しないのか)。そう、こうした多弁は例外なく変調の兆しだった。本当に良い日はしようと思わずに実行し、嬉しかったこともすぐ忘れる。ここ最近はずっと日記の必要のない生を送っている。本はたくさん読めるし、思考することへの出
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クリシェと括弧と他人事
ここ一ヶ月ほど、とても安定している。相変わらず体調は良くないけれど、精神はとても平穏で、どこか満ち足りている。何より驚くべきことに、本を読むということができるようになった。以前の5倍くらいのスピードで読み進められるし、そもそも「あの本が読みたい」という欲求がちゃんと湧いてくる。論脈を区切るための七色の付箋は、最も重要な箇所に使う赤色をまっさきに切らした。少し前まで、絶望的に本が読めなかった。初めて読んだはずのものに強烈な既視感を覚えていた。だからどうした、またそれか。もう散々見たことがある気がする初見、うんざりするほど繰り返された一回目。こんな凡庸で取るに足らない見解を、どうか書き手は心の底か
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陶酔と崇高の音楽
音楽的情動の本質をその名に冠した音楽ジャンルというものがある。トランス(Trance)だ。すなわち、陶酔。日本ではほとんど聴かれていない。ほとんどの人は7分以上ある曲など聴いたこともないだろう。繰り返しばかりで退屈だ、イントロが長い、サビはいつ来るのか、と人は言う。楽曲にはそれ固有の展開というものが存在する、ということから学ばなければなるまい。これを理解するには、いちどクラブの映像でも見てみるのがよい。トランスは電子音楽であり、またクラブミュージックの一種であるから、重低音の地鳴りをもたらす巨大なスピーカーが張り巡らされた箱の中で聴くのが本式だ、という側面が確かにあるのだ。イントロだとか誤って
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傑作とその後遺症
個別の好きな曲を超えて、好きな作曲家というものを持つのは難しいことではないだろうか。というのも、彼らはたいてい傑作を一曲だけしか書かないからだ。心から敬愛しているその曲から辿って他のあらゆる曲を聴いてみるが、結局はその一曲にまったく及ばない。これは迷走、これは過去の栄光に縋っているだけ、これは時流に迎合してみただけ。そうしてその作曲家は、会心の一曲だけを残してどうやら消えたらしい。そうしたスランプを現在進行形で観測することもある。会心の一作、あるいは驚嘆すべき数曲の連作の後、見ているだけでも苦しい時期がある。創作活動を止めているわけではなく、コンスタントに曲は書いているが、その生産物の中にまざ
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思考という地獄
哲学という活動のもつある特異な側面に、身体を蝕まれ、生活を破壊されていると感じる。すなわち、思考という活動に。まさか、思考なんて何をするにも必要ではないか、と思われるかもしれない。だが、それをかくも凝集された仕方でひっきりなしに要求する活動は他に類例がない。哲学は万学の祖であることによってではなく、およそ思考というのものの定義的な活動であることによって、万学の女王と呼ばれるのではないか。ここに、思考というのがその内容にかかわらず人間にもたらす毒について書き留めておきたい。哲学はその範例として、しかし単なる一例として。思考することの困難。まず、どんなに頑張っても40分くらいしか集中力が保たない、
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メフィストフェレス
想像された発話、自分劇場──先の見えない思索の道中、口さがない「学者」どもが夢枕に立つ。「それは結構なことです、あなたは自分の頭で哲学をしていらっしゃる。ですが(偉大な思想家の名前)は……」いや、そこにいるのは自分だ。予防線を張って、あれこれ当たり障りのないエクスキューズをしているのは。「彼の思想の研究としてはどうなのか自信がないのですが、僕が昔から考えてきたことで……」その返答にまた学者どもが繰り言をのたまい、ついに自分の逆鱗に触れる。「あのですね、貴方はこの、(検閲削除)!!!」違う、それは一人遊びだ、こいつらは指人形だ。そうやっていつも自分で激昂しては、あらかじめ萎縮しているのだ。やめろ
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半分に割って保存してあったりんご。断面が茶色くなっているのを包丁でそぐと、また真っ白な側面が現れるだろう……朦朧とした頭でぼんやりと、こんな想像を繰り返していた。ベッドから這い上がって、散歩中もそんな想念が訪れた気がしたので、帰って実際にりんごを剥いて食べた。自分はりんごを食べたかったのだろうか? そこで実際に起こっていたのは正味のところ、りんごのイメージが何度も訪れる、ということだけではなかったか? もしこれが漫画なら、何をするときもりんごが頭にある彼は間違いなく、りんごを食べたい人として描かれているのだろう。だがこれは漫画でもなければ他人でもない。欲求を持つことから、それのイメージを繰り返
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歌詞において直接的な表現を避けること。分かりやすすぎる詞を見ると思わずウッとなる。泣きたくなるとか、死んでしまおうかとか。そういう詞を擦り減らして聴けるようにしている。歌えば歌うほど意味が分かるようになる、というのは偽だ。何度も歌うと、見知った歌詞も難読化されていく。会話とは違う言葉の姿にどんどん近づいてゆき、物語じみた詞も詩のようになる。あるいは外国語の歌を歌っている感じになる、それも読もうと思えば読める外国語の。音の並び、しかし決して無意味で未規定なただの音ではない、音素(phoneme)の並びの存在に気づいてゆく。例えば、kの音は殺すつもりで。擦り減らす前からあらかじめ難読化された詞は好
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意味と情動を擦り減らすこと
歌の稽古の関心事はもっぱら物理的なことである。一つは基本的な発声法であり、息を口内に当てる場所や舌の位置を注意深く観察しながら歌う。もう一つは楽曲に応じた歌唱法だが、それも歌詞の意味というよりは、急に音程が上がる箇所への準備や、この箇所はビブラートをわざと効かせないといった細かな点に留意する。こうして見てみると、歌の練習は瞑想に似てけっこう忙しい。意味など考えている暇はないのだ。しかし、そうした注意点も歌い慣れていくうちに自然と意識から抜け落ちていき、残った頭の方はすっかり空っぽになる。日々の味気ない反復にどこか飽いている我々も、歌においてはその無意味さはありのまま肯定され、というより単に素通
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俳優の逆説と稽古の逆説
演劇には、人をそこへと否応なく没入させ、波立つ情動へと縛りつける魔力がある。にもかかわらず、その魔力からひとり自由な存在がいる──それが役者である、とディドロはいう。ディドロの演劇論は、観客と役者の間に鋭い非対称性を観て取る。彼はそれを「感じやすさ(sensibilité, 感受性)」の有無によって説明する。舞台上の幻にあられもなく釘付けにされる、感じやすい観客。そしてそれをいささかも感じることなく、振る舞いの模倣と計算によって遂行する冷めた役者。観客が共に感じさせられ、共に享受させられている苦悩、それゆえに受け手ではなく送り手の方においてこそ最も厳しいかに思われる苦難を、そのじつ役者はまった
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フィクション恐怖症と現実における不感症
しかし、フィクションに心が動かされるというのはやはり不合理なことではないのか──いくら真のリアリティが虚構のうちにあるとはいっても。観ている当人に不幸な出来事(例えば親しい人の死など)が降りかかってきたわけでもないのに。こんな見方がありうる。ひとは物語を観て本当は悲しんでなどおらず、誤って悲しいと思い込んでいるだけである(エラー説)。あるいは、悲しんでいるのは登場人物であって、ひとは彼らの悲しみと自分の悲しみを取り違えているだけである(錯覚説)。確かにそうかもしれない。確かにひとは物語から損害を被ってはいない。フィクションにそうした実害はないし、あったとしてもそれはお前の不幸ではない──だが、
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フィクション恐怖症
映画やアニメをほとんど観ない。いや、観ることができない。決して嫌いではなく、むしろ好きなはずなのに、なぜかいつも習慣として定着しなかった。それで文化的な素養がないのを嘆いて、たびたび物語を意識的に摂取しようと努めては、ことごとく挫折してきた。数年前からその原因にはうっすら気づいていた。昔こんなことを言っている人を見かけて、それははっきりと確信に変わった。> 妹1は映画を全く観ないんだけど、その理由が「心を動かされたくない」— mariekko (@stem910) June 6, 2018これを見て、自分もまた、物語にいつもひどく心を乱されてきたという事実にようやく気づいた。ありていに言えば、
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雑念を掬い上げる:瞑想と思索
眠りに入る直前にはその前触れがある。まったく脈絡のない想念が浮かんでくるのだ。布団でスマホを眺めているといつの間にか意識が遠のいて、あらぬ方へと考えが逸れている。ふと我に返って、今さっき何を考えていたのか思い出そうとするが、あまりに微弱で無意味な考えなのでほとんど思い出すことができない。そうなったらいつもスマホを脇に置いて、安んじて目をつむる。この入眠予報は例外なく的中するのだ。これはごく短い夢、夢の予告編のようなものだと言える。夢もまた荒唐無稽であり、ゆえにその内容のほとんどを記憶していられない。あるいは思い出しおおせたときには既に、もともとありはしなかったストーリーを作ってしまってもいる。
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砂時計と時間の流れ
しかし砂時計は時間の流れを見せてはくれなかった。実際、砂時計の本来の使い方は落ちている砂を眺めることではない。砂の残量を見るのだ。ふと見やるとまだ砂はたっぷり残っている。また一瞥するともう砂は残り少ししかない。これが砂時計の使い方である。そしてこの二つの一瞥、二枚のスナップショットの間に流れているものこそが時間である。その一瞥の中に、砂が現在進行形で落ちている、という動きが含まれていても構わない。だが、その運動も含めて一枚のスナップショットに書き込まれてしまう。ちょうどiPhoneの動く写真(Live Photo)のように。砂が落ちる運動をじっと眺めているとき、むしろ時間は止まっている──目を
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歌うことを学ぶ
半年ほど前から歌を始めた。といっても別に習い始めたわけでもなく、カラオケや家中至るところで勝手に歌っているだけだ。これまで人生で歌を歌おうと思ったことなどなかった。しかし今では普通の人間に何周も遅れて、まるで真新しく物珍しいもののように、歌ばかり歌って暮らしている。歌う曲は何でもいい。正確には、何でも良くなった。歌わずに聴くだけだったときには、そもそもこの世に存在を許せる曲が数曲しかなかった。聴き込んで耳が肥えていくうちに、許容範囲がピラミッドの頂上くらいの狭さになってしまったのだ。だからトランスやハウスばかり聴いており、ボーカルなどは楽器の一つにすぎなかった。ボーカル曲でもinstrumen
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演技には二種類の型がある。一つは「らしい」振る舞いをすること。そう振る舞うのはまさに彼らしいので、人はその演技に気づかず素通りする。人を騙すのにも使えるが、ときに痛切な自己表現になることもあり、実存の全てがそうした演技に賭けられることもある(誰も気づいてあげられない悲しい試み)。これがアイロニーの型であり、もう一つがユーモアの型だ。つまり、らしくない振る舞いをすること。その人の普段の人格からは考えられないコミカルな振る舞いを見て、彼はおどけているのだと人は気づく。アイロニーとユーモアとの違い、例えば風刺画と冗談との違いは何か。前者は暗く、後者は明るい感じがするが、それは芯を食っていない。この違
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砂時計
砂時計を買った。のめり込んでしまいがちな作業に区切りを入れたいが、タイマーのように強制的に中断させられたくはなかった。本当に集中しているときは砂が落ちきるがままにさせて欲しいし、気が散っているときにはサラサラと流れ落ちる砂を漫然と眺めていたかった。何より、時間の流れを最も原始的な仕方で体感してみたかった。砂というありふれた素材を重力を使って落とし、砂の量と中空の管の細さによって時間を調節する。何千年も前からあったに違いない、この単純な仕掛けが好ましかった。用途が用途なので30分計を探していたが、砂時計というものはふつう3分とか5分とかいった短い時間を計るためのものらしい。Amazonのレビュー
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劇的なものと演技的なもの
演劇というものはそもそもその構造からしてあるべき真剣さを欠いている。現実の模倣、絵空事の人生、役者という赤の他人。何よりその滑稽さは台本というものの存在に要約されている。役柄や台本の内容が架空であるのはまだいい。むしろ、それをあたかも自分の心情の表明であるかのように真剣に読み上げなければならないことの方に、何か根本的な不釣り合いさがある。すなわち、真剣さの実現を目指さねばならないのに構造上どうしても空々しいという矛盾が。この矛盾が演劇を避けがたく滑稽なものにしている。にもかかわらず、いやそれゆえに、いかなる演劇もこの構造を破壊することを目指すのでなければならない。すなわち──台本はその一回限り
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音楽・反復・永劫回帰
同じ曲を繰り返し何十回も何百回も聴く癖がある。最も好きな十数曲なら千回以上には達するだろう。ただ漫然とループ再生をしているのではない。手動で「もう一度再生する」ボタンを押し、聴き終わっては押し、聴き終わってはまた押している。自分で歌うことを覚えてからは、さらに数百回か千回を超える反復が付け加わった。これは少し常軌を逸した性癖かもしれないが、しかし音楽においてこそ、実はありふれたことでもあるのではないだろうか。思うに、「飽きる」ことがありうるか否かという点によって、世の中の事象は二分されうる。例えば会話なら、二回も三回も同じ話をする人は嫌われる。新聞もまた何回も読みたくはないが、本や映画なら数回
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言葉の出口、場所のイメージ
ここを作ってからさっそく思索に変化が現れている。歩きながら、読書や料理をしながら、ここに書くことをぼんやり考えている時間が増えた。そうやって考えるとき、この場所のことを思い浮かべていることに気づいた。ローカルで下書きしているときにも心はここにあり、ほのかにインターネットに接続されている。場所のイメージとは、他人だったり社交の場だったり、日記や草稿だったりする、言葉の出口のイメージだ。それぞれの場所には特有の、思考の気分のようなものがある。賑やかすぎると話せない事柄があるが、独りで静かすぎると思考は推進力を失う。ここはインターネット上であるにもかかわらず、ふだんの考えるときの静かで透明な空気に近
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悲劇と喜劇とは、同じ「演劇」に悲しい気分と楽しい気分とがそれぞれ色づけされたものではない。悲劇はその本性上、真剣でない、心にもないという意味での「演技」であることをあらかじめ拒んで成立している。現実よりも真に迫った、引き込まれざるをえない見事な展開がまさに「劇」的と呼ばれる意味において、悲劇は演劇であり、喜劇は「劇的」(ドラマティック)でない。ドラマとコメディーとが「劇」として十把一絡げにされるのは、舞台上で起こるのは確かに、実在の出来事でも役者自身の本気の心情吐露でもないからだ。ところで喜劇においてはその現実でなさが劇の内容にまで侵食し、誰が見ても分かる滑稽さ(=ユーモア)を醸し出しているの
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出口を一つ、新しく作ってやること。すると思いがけず水が流れ始める──もとから泉がそこにあったかのように。考えるとき、心の中で他人に対して話し込んでいることがある。「彼に対してだからこそ、いつも考えていたあのことが言えるぞ」と。しかしこの「いつも考えていたこと」が、その想像上の他人に語るとき初めて作り出されることがある、というのがここでの問題だった。(思考がいつもこうした会話形式を取るとは思わない。むしろ思考はふつう聞き手も話し手もいないところで言葉が言葉を呼んで展開していくものなのだが)こういう他人は心の中に一人でも多く飼うのがよい。それは彼に対応する自分の人格、その人に合わせた話法、ひいては