placet experiri :: 14

意味と情動を擦り減らすこと

歌の稽古の関心事はもっぱら物理的なことである。一つは基本的な発声法であり、息を口内に当てる場所や舌の位置を注意深く観察しながら歌う。もう一つは楽曲に応じた歌唱法だが、それも歌詞の意味というよりは、急に音程が上がる箇所への準備や、この箇所はビブラートをわざと効かせないといった細かな点に留意する。こうして見てみると、歌の練習は瞑想に似てけっこう忙しい。意味など考えている暇はないのだ。しかし、そうした注意点も歌い慣れていくうちに自然と意識から抜け落ちていき、残った頭の方はすっかり空っぽになる。日々の味気ない反復にどこか飽いている我々も、歌においてはその無意味さはありのまま肯定され、というより単に素通りされて、同じ事象を繰り返すことを何の気なしに意志している。

かつてその曲は物語のように、いやむしろ物語以上に、大きな感動や崇高さの印象をもたらしてくれたような気もする。しかしそんなものはとうの昔にどこかへ行ってしまった。その悲痛な曲を、昔よりはるかに情感豊かな歌い方で、しかしそのじつまったく平坦な気持ちで歌う(それは仮病にも似ている)。初めの方がよっぽど曲の気分に入り込めていたし、その曲と誠実に向き合っていた気もする。今では歌詞もメロディラインも、もう何のイメージも喚起しなくなった。

だがそれで構わない。それでももう一度、その同じ曲を歌おう。意味も情動もすべて汲み尽くしてしまったのに、どこにそんな力が残っていたのだろうか、しかしもう一度……味のしなくなったガムを性懲りもなく噛み続けている。おそらく音楽の本体は「味」ではなく、むしろ噛んでも決して無くならないゴム塊の方にあるのではないか。噛むたびごとに流出していく味とは、意味の「味」であり、音楽に含まれた物語的な成分であり、そして実は雑味でもあるのだ。

歌手に情動が欠落していること、これについてはディドロの指摘する通りなので、ここでは意味体験の欠如について次の事実を指摘しておく。それは、歌手はしばしば自然と歌詞を間違えるということだ。例えば二番の歌詞を一番の歌詞で歌ってしまえば、歌詞は挿入の前後で物語として繋がらず、文としては意味不明なものになるだろう。もしひとが何らかの思想内容や誰かの感情の伝達のために歌っているなら、いま決してあってはならないことが起きたことになる。まともに言葉を使っているなら、会話文の順番を入れ替えてよい場合などひとつもない。順不同に発言する人は気が狂っているだろう。しかし歌においてはさほど違和感もないし、場合によっては気づかないかもしれない。

歌うとは、意味や情動の外側で言葉を唱えることだ。逆説的だが、それは祈りにも似ている。祈りということで、自分の思いの丈や願い事を神様なる人に伝達しようとする人がいる。だが、空っぽでなければ祈りもないのだ。


歌を録音してみると分かることだが、歌に込めた思いはたいてい込もっていない。初めて聴いたときのように曲に入り込んで歌えたと思ったときには、その歌は必ず失敗している。感極まって胸が詰まったり、昂る気持ちを抑えられずに声が上ずったりしているのだ。逆に、驚くほど良い出来の音源を後で見つけて、どうやってこれを歌いえたのか思い返してみると、「さあ気分転換に一曲」と軽い気持ちで自動的に歌っていただけだったりする。内面とアウトプットはしばしば一致しない。むしろ内面が空っぽのときにこそ、あたかも内面が詰まっているかのような出力が生まれる、という逆相関がある。

そんなに上手く歌うことばかり気にせず、気持ちよく歌えればそれで良いではないか、と思うかもしれない。だが上手く歌うことは単なるアウトプットではない。ひとは自分が歌うのを聴いてもいるのだ。だから、例えば胸が詰まって音を外してしまえば、それが自分でも気になって、次の小節を気持ちよく歌うことを妨げる。つまり、感極まって歌うと感動が冷めてしまうのだ。

ここには、出力がただちに自己自身へとフィードバックされ、それが再び出力に影響するという循環がある。ところで、これはマイクのハウリングの原理でもある。つまり、無限の出力を得るにはほんのわずかの入力さえあればよいのだ。巨大な気持ちを入力して回路を壊してしまうより、擦り減らされたわずかな気分を、この恐るべき増幅回路に委ねるだけでいい。


音楽の偉大さは与える印象の大きさではなく、その耐久力によって測られる。だから意味も情動もさっさと擦り切れてしまえばいい。米のとぎ汁のように、何度も洗って、栄養かもしれないものまで全部流してしまえ!