歌詞において直接的な表現を避けること。分かりやすすぎる詞を見ると思わずウッとなる。泣きたくなるとか、死んでしまおうかとか。
そういう詞を擦り減らして聴けるようにしている。
歌えば歌うほど意味が分かるようになる、というのは偽だ。何度も歌うと、見知った歌詞も難読化されていく。会話とは違う言葉の姿にどんどん近づいてゆき、物語じみた詞も詩のようになる。あるいは外国語の歌を歌っている感じになる、それも読もうと思えば読める外国語の。音の並び、しかし決して無意味で未規定なただの音ではない、音素(phoneme)の並びの存在に気づいてゆく。例えば、kの音は殺すつもりで。
擦り減らす前からあらかじめ難読化された詞は好ましい。どうせ大したことは言っていないだろうが、詞としてとにかく優れた詞。具体性ならあってもいい、むしろあまりに具体的すぎて判じ絵のようになってしまえばいい。この箇所にはこんな意味が込められているのでは、とあれこれ深入りしたくなる詞でもいい。ということはつまり、ただ歌いただ聴くときには、注釈なしでは分からない音の並びを前にすることになるから。
意味が分からないまま読むということ。理解できるものも、理解しないようになるまで読むこと。逆説的にも、そうすることで分かるようになる何ががある。すると楽曲は一つの気分へと要約されていく。楽しいとか悲しいとかではない。例えば「悲劇的認識にもかかわらず湧き上がってくる或る哄笑の気分」とか、「ほとんど存在しない過去への懐疑的な感傷」とか(書いてみて気づいたが、これらの気分はみな何らかの矛盾を孕んでいる)。すると今度は音楽的な気分の方が直接湧いてくるようになって、そこから逆に楽曲が呼び出されるようになる。
こうしたことはしかし、音楽だけでは、言葉抜きでは決して成就しなかったのではないか──擦り減らされ、難読化された言葉なしでは。