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傑作とその後遺症

個別の好きな曲を超えて、好きな作曲家というものを持つのは難しいことではないだろうか。というのも、彼らはたいてい傑作を一曲だけしか書かないからだ。心から敬愛しているその曲から辿って他のあらゆる曲を聴いてみるが、結局はその一曲にまったく及ばない。これは迷走、これは過去の栄光に縋っているだけ、これは時流に迎合してみただけ。そうしてその作曲家は、会心の一曲だけを残してどうやら消えたらしい。

そうしたスランプを現在進行形で観測することもある。会心の一作、あるいは驚嘆すべき数曲の連作の後、見ているだけでも苦しい時期がある。創作活動を止めているわけではなく、コンスタントに曲は書いているが、その生産物の中にまざまざと苦しみを読み取ることができてしまうのだ。


作曲家の習性や性癖は、傑作以外の平凡な曲、とりわけスランプの時の曲の書き方に色濃く現れる。もっとも退屈なのは迎合的なスランプで、そのまま新しい「スタイル」が固まることもある(これは下手な骨折の治し方に似ている)。以前の傑作と似たような──と本人は信じている──曲を作ろうとする者は、その傑作が傑作たりえたまさにその特質の複製に失敗する。例えば、その楽曲の類を見ない真剣さや深刻さは確かに美徳だった。だが真に真似しえなかったのは、そうした深刻さを大胆に戯画化してお茶目に提示してせた、そのバランス感覚であったのに。作曲家はしばしば、自分がどの点において真に秀でているのか、その自己認識を持ち合わせていない。

ところで、かなり例外的なケースとして、迎合不足型がいる。彼はふだんは商業ベースの音楽の外におり、しかしその唯一の傑作は商業向けに書かれた作品なのである。彼が自らの奇形の独自性を大衆的なものへと妥協させたとき、未だかつて見たことのない事柄が、辛うじて見慣れたポップスの文法の下で歌われた。その後ずっと前衛的な音楽を、すなわち「見たことのない」というそれ自体見飽きたフォーマットの曲を作り続けている。しかしあの一作だけは実に素晴らしいものだった。

この事実には何か胸を打つところがある。ある到達点を超えると、人は自分が書きたいもののむしろ周辺で、半ば書かされているように書き、分かりやすさやポップなものへのギリギリの妥協を始めなければならない。少なくとも音楽は、分かる人にだけ分かる俳句や骨董品のような高尚なものになりきってはならないのだ。しかしこの妥協的作曲法はきわめて危険な綱引きでもある。うっかり手を緩めすぎれば、取り返しのつかないほど全てを持っていかれるだろう。


見たところスランプには、このまま同じようなスタイルで行くか、それともスタイルを変えるべきか、というジレンマがあるらしい。同じものは二度と作れない、あの傑作と似たようなものすら作ることはできないだろうと皆が思う。それは、ひとたび傑作が書かれてしまえば、その切り口とそれによって開かれた場は、そのたった一回で吸い尽くされ、根こぎにされ、枯れ果てているからなのだ。作曲家の中にはそのことを体で知っている者もいる。だから、うっかり同じような展開を書いてしまったときにも、その解決にはあの素晴らしいフレーズによって見事になされるであろうその位置に、そこからわざとずらした、最善とはいえない変奏が置かれることがある。彼らはほとんど生理的な忌避感によって同じものを書くことができないのだ。こうした些細なためらいが至るところに認められ、しかし結局はうっかり同じモチーフが、ただしおずおずと遠慮がちに反復されるとき、それは「パッとしない」という印象を残す。

ならばスタイルを全く変えてしまうのがよいかといえば、そこにも別の困難がある。作曲家というのはおよそ音楽というものを作る一般的能力を持っているわけではない。ただ彼なりの切り口でそうするだけであり、しかも優れた者ほど鋭く、その代わり狭く絞られた切り口を持つ。そしてその外側では実は赤子同然なのである。傑作を書き終えた後、彼らは自分のレベルと武器がリセットされており、再びゼロから始めなければならないことに気づく。だから過去に書いたものをうっかり踏襲したり、あるいはその続きを書こうとするのを見ても決して嗤うべきではないのだ。そしてだからこそ、完全な転向という仕方で、過去の自分の作風に決別しようと意志することには気づかれがたい罠が存する。すなわち、そのときやはり自分の無能力を埋め合わせる手本が暗に要請され、ただし決心に従って自分のものではない手本が忍び込む。つまり完全な転向は必ず踏襲的にならざるをえないのだ。かつ、それに自ら気づく可能性を途絶する自己欺瞞的な構造がおまけについてくる。


このジレンマが解決される仕方を述べるのはたやすい。それは一言で言えば忘却である。前のものと同じものか別のものか、その参照軸としての前のものがいつまでも念頭を去らないとき、作品はそれを書いた者に対して歯向かって来るだろう。そこから逃れようと強く意志することはかえって糸をもつれさせてしまう。書いたものをすぐ忘れる人は幸いである。彼は、結果として出来上がったものが前と同じだったかどうかにもさほど関心を持たないだろう。

しかしこれは結局のところ、ひらめき、天から降ってくること、天啓、等々の定義を述べたにすぎない。ひらめきは、先行するものからの予測を絶するものを、これまで全てをまったく忘れてしまったかのような無関係のものを前触れなしにもたらす。結局のところ創作における忘却は、嫌な出来事を忘れるようにただ忘れればいいわけではなく、新たな別の着想によって上書きされるほかない。そういうわけで、こうして忘却なる一般的原則を述べてみたところで、個別のその位置に何が降ってくるべきかについては何も分からない。だから悩める作曲家の悩める生産物を聴きながら、自分も一緒に途方に暮れてしまうことがある。

自分の最高傑作をすでに書いてしまった作曲家の残りの半生にしばしば思いを馳せる。もちろんその後も生活は続くだろう。