陶酔と崇高の音楽
音楽的情動の本質をその名に冠した音楽ジャンルというものがある。トランス(Trance)だ。すなわち、陶酔。
日本ではほとんど聴かれていない。ほとんどの人は7分以上ある曲など聴いたこともないだろう。繰り返しばかりで退屈だ、イントロが長い、サビはいつ来るのか、と人は言う。楽曲にはそれ固有の展開というものが存在する、ということから学ばなければなるまい。これを理解するには、いちどクラブの映像でも見てみるのがよい。トランスは電子音楽であり、またクラブミュージックの一種であるから、重低音の地鳴りをもたらす巨大なスピーカーが張り巡らされた箱の中で聴くのが本式だ、という側面が確かにあるのだ。
イントロだとか誤って呼ばれていたのはビルドアップ(build-up)と呼ばれる、れっきとした曲の本体である。8小節を1単位とした繰り返しの中で、一つ、また一つとパートを徐々が増えていく。その差分を聴き取る、というのが通の楽しみ方だ。そしてトランスにおいては、その曲の中間に必ずブレイク(break, 小休止)と呼ばれる静かなパートがある。4つ打ちのキックに合わせてゆらゆらしていたフロアの人々はいったん立ち止まり、壮大なパッドやメロディーに耳を傾ける。そしてそのブレイク開けに最高潮(ドロップ, drop)が訪れるのを今か今かと待っている。DJがフィルターを弄りながらそれを用意し、ついに両手を手を挙げる。フロアは沸き立ち、諸手を挙げて飛び跳ね、狂喜乱舞する……というしきたりである。
箱の中には確かに熱狂があった。だがそれは陶酔とは別のものではないか、という印象は拭えなかった。自分が行ったのがUplifting Trance(盛り上がる系のトランス)のイベントだったことも相まって、人気バンドのライブみたいだ、と感じた。ドロップでの熱狂的な騒がしさはむしろ陶酔と両立せず、それを阻害すらしていた。
自分にとって驚きだったのは、そうした正真正銘のトランスよりも、展開もへったくれもないテクノかハウスに近いものの方が頭にグラっと来たことだ。メロディーもウワモノもない単調なビートの繰り返しに大音量で身体ごと揺られていると、意識がフッと途切れて、膝がガクっとなることすらある。この手の曲はそれぞれの曲にほとんど個性がなく、別の曲がかかり始めてもあまり気づかない。名曲も駄曲もさほど区別がなく、記憶にも残らないので、どれでも催眠剤として役に立つ。
だがこれもまた陶酔とは別ものだ、と感じざるをえなかった。確かにトランスに熱狂は要らない。だが、単なる酩酊状態また、必ずしも音楽的手段によって惹き起こす必要のないものなのだ。むしろ音楽的なもの、和音やメロディーなんてものは端的に余計であり、リズムさえあればいい、というのがテクノというジャンルの結論なのではないか。音楽が人に酩酊状態をもたらす効率的手段の身分に甘んじるべきなら、人間は大音量で規則的振動を聞くと意識を失うという脆弱性を突くだけでいいと。
陶酔というのは──『ニーチェ』講義のハイデガーも言うように──それを単なる熱狂とか酩酊のようなものとして捉えるべきではない。つまり一般に、音楽によって主観に惹き起こされた、主観の状態として捉えるべきではないのだ。だとすればトランスとは実は「トランス状態」を催させるための音楽ではない、ということになるだろう。だから例えば、聴き始めてまだ歴が浅い人が、自分にはいつまでも恍惚感が来ないとか、その初体験をした日がトランス入門記念日だとか考えているようだと、いつまでもこのジャンルは分からない。
トランスの、その陶酔の本質は、音楽が聴く主観に惹き起こすもの──それは外在的要素にすぎない──の中にではなく、音楽そのものの内側に書き込まれている。すなわち和音的、ないしそれを包括するメロディ的なものの中に。
とはいえトランスにおいても、ウワモノ(音程のある楽器)の重要性はビートのそれに対して従属的だ、というのが常識ではある。それでも私はある明確な根拠をもって曲調を重視する。それは、トランスには、その曲調以外ではほとんど見分けがつかない或る派生ジャンルが存在する、ということからだ。そのビートもリズムトラックにおいても、楽器構成やそれらの音色においてもほとんど区別がつかない。それはプログレッシブハウス(Progressive House, 以下「プログレハウス」と略記)と呼ばれるジャンルである。リードが賑やかなEDM寄りのそれと区別して、Melodic Progressive Houseとも呼ばれる。
この二つのジャンルは双子のような、鏡写しの関係にある。そして、一見すればトランスの本質だと呼びたくなるものの全てはプログレハウスの方にも含まれている。小休止を間に挟んだ展開、平均7分ほどの曲の長さ。主役の楽器は、私が愛してやまない、「プラック(Pluck)」と呼ばれるシンセサイザーの音色だ。ハープのように指で弾いた瞬間だけコロンと鳴り、すばやく減衰してしまう控えめな音。
ここに両ジャンル最大の特徴がある。鍵盤を押している間ずっとベターっと鳴り続けるにぎやかなリード(Lead)に代わって、プラックという減衰音が登場したのは歴史的な革命だった。大味だったトランスはそれによって微細にわたる絶大な表現力を獲得し、ジャンルとしても全盛期を迎えたように見える。この控えめな音を掻き消さないためにこそ、他の楽器の数も削減されてミニマルな構成になり、こんにちProgressive Tranceと呼ばれるものへと生まれ変わったのだ。プログレハウスはこの時期のトランスから、このプラック音をそのまま受け継いで派生したジャンルである。
このジャンルが派生した理由、その一つには、トランスが成熟したジャンルに特有の行き詰まりにあった、ということが言えると思う。YouTubeの外国語のコメントの多くが、トランスが最も生産的であった時期として2010年付近を示している。そしてこれはトランス畑のコンポーザーたちがプログレハウスに移住した時期に重なる。自分もまた、迷走ですらなく、ジャンル内での迎合と他ジャンルの踏襲でしかないトランスを見限って、ここ数年ずっとプログレハウスの方を好んで聴いてきた。伸び盛りのジャンルであり、曲作りの規約ははっきりと定まっており(これは作り手にとって幸いなことである)、かつその定型や因襲はまだ疑問視されてはいない。つまり、同じような曲を書き続けることに対する集団的な倦怠感は、彼らにはまだ襲ってきていない。
プログレッシブハウスは全体として和音を中心に構成されており、その調和的な響きはわれわれに心地よさ、快適さをもたらしてくれる。カントが言う意味での「適意(Gefallen)」を。実際、それは自然美のイメージにきわめて近い。作曲者はそのことを良く知っており、それは彼らがつけるタイトルに読み取ることができる。曲名は一般に風景を表しており、海に関する曲が最も多い。だが、扱われるのはもっぱら浜辺(Beach, Seaside)にとどまり、海洋(Sea, Ocean)そのものが主題となることはなぜかない。空を曲名にもつ曲も、朝日や夕焼けなどの明るい間の風景が描かれがちであり、夜は無い。具象性のないタイトルで興味深いのは「色の名前タイトル」だ。色もまた調和的な美のイメージをもつ。作曲者は実際にそうした美麗な景色を前にしながら詩人のように曲を書いているのだろう。その風景画が翻訳される先、それが和音なのである。だから彼らはプラックでもっぱらコードを弾く。
上のような説明が皮肉のように聞こえたなら申し訳ない。告白するが、事実、このジャンルに対して自分が感じていた物足りなさや違和感は次第に強まっていったのだ。そして、上のような一般的法則性が因襲として可視的になったと同時に、それはほとんど聴くに耐えなくなった。その問題はただ一つ、この音楽がただ「美」しかもたらさない、という点にある。それはただ美しいだけだ。芸術の本質が美にあるなどというのは大きな錯誤ではないだろうか。少なくとも、「美」という言葉で何でも指し示せると思っていないか。
かくしてトランスに戻ってきた。トランスとは何か、陶酔とは何ではないか、ということを嫌というほど知って。すなわちここにあるのは、美の対義語、カントが言うところの崇高の問題なのである。表象しえないもの、類例のないもの、その模像をほんらい作り得ないものに対する畏れの感情。その名前からして見るからにいかがわしく、うっすら宗教的な臭いすら漂うこのジャンルは、決して、聴く人に安心できる快適さをもたらしたりはしない。それはしばしば「壮大だ」と形容され、中には宇宙的だと形容されるものもあるが、これらはみな、人間的なものの尺度を越え出ていること(=数学的崇高)として解されるべきものであろう。
トランスはどこまでも厳粛な音楽である。それはBGMとして片手間に聴かれることすら拒んでいるように感じる。仕方なく、音楽を聴くためだけに、瞑想でもするように細心の注意を払って聴く。しかもその一曲に人生の1/3を捧げ、歯を食いしばり顔をしかめながら何千回も聴く。はっきり言って、それを反復しながら──例えば天空がぱっくりと割れて光が射すような茫漠とした打開と救済のイメージを抱きつつ──自分はこの世界に居ないように感じている。いや、もはやそうとすら感じず、他のものを聴くと世界に引き摺り下ろされるように感じる。
音楽には本来、もっとも遅効性の毒がある。しかし、ひとはそれを綺麗に取り去って、ただ美だけを残すこともできた──これがプログレハウスが半ば自覚的にやったことであり、実際、それによってトランスはまったくの別物になったのである。
音楽は彫刻や絵画といった造形芸術と違って、何を表象することもなく、いかなるものの像も作らない、と言われることがある。が、これは事実上、大半の音楽作品には該当しない。多くの音楽作品は表象芸術に成り下がっている。すでに見たプログレハウスの和音は自然美を表現するための、ポップスは人間の感情を「表現」するための手段に。
自分は特にポップスのメロディーのそうした側面に異常な鋭敏さをもち、ほとんどつねに強い吐き気と激しい苛立ちを覚える。やめろ、このメロドラマの音楽化! ふだん人間に対して怒ることなどないのに、本当に悲しい、呪われた耳だと思う。なぜ買い物かごを抱えながら、あんなに惨めで恥ずかしい気持ちにならなければならないのか。例えば人間の愛を歌詞が表現しているのは構わない、だがメロディーにそうさせるのだけはお願いだから止めてくれ。
また自分はこの点で友人に誤解されているのだが、自分はメロディアスなトランスが、すなわちJポップに近いトランスが好きだ、と思われている。何という誤解! だがこれは実はメロディー一般に対する誤解でもある。そして確かに自分はトランスにおけるメロディーだけが例外的に好きらしいのだ。それはまず、主旋律の意味でのメロディーではない。トランスにおいてはピアノやプラックだけでなく、アルペジオもまた歌い、黙ってコードを示すはずのストリングスすら実は展開を歌っている。古くは対位法と呼ばれてきたような、そうした多声的なメロディーは、さていったい何を表現しているのか?
つべこべ言わず、いくつか聴いてみてほしい。良い曲だと同意する必要はまったくない、だがちょっと考えてみてほしい。このプラックのリフは、というよりそれともう一つのアルペジオとの絡み合うような進行は、いったい何を表象しているのか──人間の恋愛感情を? 自然の風景を? ……否。作曲者がつけたタイトルいわく:あるものは福音を、あるものは天空の花を、そしてあるものは霊魂を、それぞれ表しているというのだ。すなわち、自然の中に、それどころか世界の中にそもそも存在せず、あるいはその規定の中に矛盾を含んでおり存在しえないものを、である。
だからトランスは確かに(冒頭で見たテクノとは違って)表象的なもの、音程をもつものを完全に捨て去ることはないのだ。単なる意味作用による快適さではなく、しかし意味作用を捨てた酩酊でもなく、意味作用そのものによって意味を超え出ること。ここに陶酔の、したがって音楽的情動の本質がある。決して旋律的なものを捨ててはならず、しかしその単なる調和に甘んじてもならない、という困難な条件を潜り抜けてのみ、それは可能になるのだ。ほとんど表象とは言えない、あまりに大きなもの、形なきものの表象は。
上に挙げた三つの曲には、従って、類例がない。世界の中にこれと似たものを探すことができないだけでなく、これと類似した曲もまた先にも後にも書かれなかった、という意味で。そう、この二種類の類例のなさは正確に対応しているのだ。同じ書き手の他の作品に見られる手癖や地口のようなものすらそこには見出すことができない。かくしてこれらの曲は各々がそのつど絶筆となった。
トランスというジャンルの行き詰まりは単なる偶然的要因によるのではなく、まったく本質的で避けがたい次の理由によるものではないか。つまり、何を範型とすることも、どんな前例に従うこともできず、いかなる類例もなしに、形なきものの表現をそのつど無から生み出さねばならない、という点に。そんな困難な課題がおいそれと首尾よく達成されるはずがあろうか。
クラシックにおけるような天才はこのジャンルには居ない。というより今日もはや天才なるもの、傑作を書き続ける一個の人格なるものを信用することができようか。天才とはむしろ、凡人の精神に一瞬だけ宿る焔のことではないのか。後には宿主の精神をも焼き尽くす陶酔の焔。だから願わくば、その焔に──それを書いている間だけは──焼き尽くされない耐久力を。そして、美麗なだけの死んだものを見分け、火のある方へとおびき寄せ、推敲する力を。