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音楽・反復・永劫回帰

同じ曲を繰り返し何十回も何百回も聴く癖がある。最も好きな十数曲なら千回以上には達するだろう。ただ漫然とループ再生をしているのではない。手動で「もう一度再生する」ボタンを押し、聴き終わっては押し、聴き終わってはまた押している。自分で歌うことを覚えてからは、さらに数百回か千回を超える反復が付け加わった。これは少し常軌を逸した性癖かもしれないが、しかし音楽においてこそ、実はありふれたことでもあるのではないだろうか。

思うに、「飽きる」ことがありうるか否かという点によって、世の中の事象は二分されうる。例えば会話なら、二回も三回も同じ話をする人は嫌われる。新聞もまた何回も読みたくはないが、本や映画なら数回くらいは繰り返してもよいだろう。読み直すたびに新たな発見があり、前回より理解が深まるというのが再読の楽しみだ。だが、求められているのがあくまで変化であるからこそ、変化がなくなれば味気ない反復に堕してしまう。そうではなく、その内容の細部に至るまでそっくりそのまま同じ鑑賞体験が反復されるとしたら、人はそれに耐えることはできない。

だが音楽としてならば、その反復にも耐えられるのではないか。耐えられるどころかむしろ、同じ内容を何度でも反復したくなるのではないか。擦り切れるほど聴いた曲、音程もリズムも覚え、歌詞の解釈も散々やった何もかも既知の事象を、私は倦むことなくもう一度繰り返すことを意志する。

それは鑑賞体験が一回一回異なるからではない。そもそも音楽においては鑑賞「体験」と呼べるような一個の経験内容がほとんどないと言える。少なくとも「私はこの旋律を聞いた、するとそれに対応する情動が私の心に湧き起こった」といった、よそ事めいた因果的継起は起こらない。むしろ聞き始めると私はその音楽そのものになってしまう。そこで体験される悲しい気分も詩の意味体験も、当の音楽にあらかじめ含まれていたものだけが起こる。(そうではない仕方で、個人的な悲しみを読み込もうとしたり、私の怒りを代弁してくれという気持ちで選曲したりすると拒否反応が出る)

本や映画に飽きが来るのは、主張内容や物語の筋が「理解する」という仕方で鑑賞されるからだ。そして意味の理解はそのまま記憶と結びついている。だから意味的なものは理解され内容が記憶されてしまえば絞り滓になる。そうなってしまったとき、人はしばしば忘却を意欲する──「記憶を消してもう一度観たい」と。初めて観たときの感動をもう一度、というわけだ。

対して、音楽において第一印象はほとんど何の役割も持たない。実際、いま好きな曲の半分くらいは、第一印象でむしろ何となく忌避感を持ち、しばらく遠ざけていたのを再発見したものだった。第一印象が反転するというのは良くある精神の機微だろう。

それだけでなく、音楽についてはそもそも最初の聴取体験をそもそも記憶していないことが多くないだろうか。それは、あったが上書きされているいうより、そもそも最初には微弱な印象しかなかったからだ。初めて聴いた曲は、歌詞は理解する間もなく流れていってしまい、その文法が分からない珍妙な旋律に困惑させられ、ともかくも音の奔流に呑まれて気づいたら一曲終わっている。そのあと振り返って思い出せることなど何一つないという点で、それは夢に似ている。

音楽というのは人間の精神に比べてあまりに流れが速すぎ、また密度が濃すぎる。たった数分の間に、その後なされるであろう数千回の反復が襞となって織り込まれている。気が遠くなる話、悪魔じみた圧縮術。


そういうわけで今日も「もう一度再生する」ボタンを押している。「これが音楽だったのか、ならばもう一度!」──人生もまた隅々まで音楽的であったらよいのに。