placet experiri :: 40

ドクトルとクランケ

手術は失敗に終わった。大事な神経を切ってしまった。それも一番助けたかった患者のだ。プツリ、と人の一生を狂わせた音がした。

取り返しのつかない後遺症を負わせたドクトル。日々、治療法の解明に心血を注ぐ。一日たりとも研究を怠ったことはない。自分が植え付けた病の治し方をずっと探している。

クランケは別に自分の足なんかどうでもよかった。むしろもう二度と自力で歩けない方がよかった。だって、わたしのびょうきがなおったら、わたしは病人クランケじゃなくなって、せんせいはわたしの主治医ドクトルじゃなくなってしまうもの。治らないはずがないのに、と絶望するドクトル。それもそのはず、いつしかクランケは自分の病を不治の病にする方法をも見つけてしまったから。

互いへの深い愛情がもたらす、矛盾した二人の望み。それをドクトルが知ったとき何を思うのだろうか。自分が心の底から救いたいと願った相手が、まさにその当のことを望んでおらず、しかもそれは自らに対する愛からであったとするなら。

だから彼らは二人一緒に理想郷(リドゥ)に来たのに救われない。彼らはもとから互いにとっての幸福だったし、そして永遠に、互いの罪であり続けるだろうから。


言えば助かるのに。私が[愛する/救いたい]のは[ドクトル/クランケ]ではないと。さあ、ふたり、固有名で呼び合って──そう簡単な話ではないのだろう。だいたい、ドクトルはすでにクランケを本名で呼んでいる。患者クランケなら他にもたくさんいたから。対してクランケは「せんせい」とだけ呼ぶ。逆に言えば……

だからクランケは自らに刺さったその棘を抜こうと欲しない。抜いた傷口から鮮血が噴き出して絶命すると信じているから、人は、棘の刺さった自己のままで救われることを欲する。しかし、「鮮血が噴き出す」とは?──楔を失うこと。その同じ棘がドクトルにも深々と刺さっているから。それを知っているから。車椅子越しにつながった二人。ドクトルはそれを知らない限りにおいてクランケとともにいる。クランケだけがそれを知っていながらドクトルとともにいる。

幸いなるかな無知なる者、愛はかれらのものである。だからドクトルは「なぜ俺のような人間がまだ慕われているのか分からない」と考える。災いなるかな、知りたる者……「せんせいはきっとわたしのことすこしもすきじゃない」とクランケは言う。「いっしょにいるのはつみのいしきだけ」

治療が絶望的になればなるほど献身的に、ドクトルはクランケの世話をする。「人は罪責性から逃れるために愛する」(ジャック・ラカン『転移』下: 216頁、岩波書店)、とはよく言ったものだ。対してクランケは愛、報われない愛から逃れるために罪責性に縋る。そして、愛へと逃れさせるために罪責性を与える……「何もかも間違いだった」と悔やみながら。咎めのない罪悪感はより募る。

「愛とはさしずめ、あなたを有責にするかもしれない者によって愛されようとする欲求である」(同所)。しかし注意せよ、罪責性から逃れられなかった愛は愛に似た別物へと化けるのだ。エロスで宥和しそこね、タナトスに占拠された自我理想は超自我として罰を与えはじめるだろう。


ドクトルは知っている、いや知りかけている。「これは罰ではなくて矛盾ではないのか?」……反射的に首を振って、何度も行き着きかけた考えを払いのける。いつも通り薄く微笑む真莉愛の顔がほんの一瞬、悪魔のように見えた。

「解放されたい? なら簡単だ、患者を置いて去ればいいだけ。なに、医者とはそういうものだろう、お前以外は皆そうしているぞ。そうしないということはつまりお前は……」それでも疑いは募る。その車椅子はもうただの椅子ではないのか? それならなぜ俺をまだ解放してくれないのか──いや、もう全部行き着いている。「知らない」と「答えたく無い」の中間で。

もう耐えられない。それでも、俺に苦しむ権利などない、と、離れかけた心に罪という重石をまた乗せる。歩けないふりをしているのは俺の方だ、笑いたければ笑え。独り善がりだと言いたければ言え。悲劇に浸る医者なんて馬鹿だ、そんなことも分かっている。それでも……茶番だと感じ始めた悲劇に浸ってでも、もう免罪され始めている罪の意識に縋ってでも、俺は自分をここに×ぎ×めておきたいと×っていた。

「したい」と「ねばならない」の同一性、同内容性。しなければ、と思う気持ちがしたい気持ちをすり潰してゆく。それでもしなければ、と思う──自分に思わせる──のはしたいと思う気持ちから。それなら!

……分かっている。これは罰ではない。それでも。何かが自分の中で音を立てて壊れてしまった。もう逃げ出すことも立ち上がることもできない。残るは丸か矛盾か、報われるか果てるか。決めるのは僕じゃ無い。

参考文献