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劇的なものと演技的なもの

演劇というものはそもそもその構造からしてあるべき真剣さを欠いている。現実の模倣、絵空事の人生、役者という赤の他人。何よりその滑稽さは台本というものの存在に要約されている。役柄や台本の内容が架空であるのはまだいい。むしろ、それをあたかも自分の心情の表明であるかのように真剣に読み上げなければならないことの方に、何か根本的な不釣り合いさがある。すなわち、真剣さの実現を目指さねばならないのに構造上どうしても空々しいという矛盾が。この矛盾が演劇を避けがたく滑稽なものにしている。

にもかかわらず、いやそれゆえに、いかなる演劇もこの構造を破壊することを目指すのでなければならない。すなわち──台本はその一回限りの上演において燃え尽きるのでなければならない。発せられた言葉はその力の衝撃だけを残して消え去るのでなければならない。いつもなら口真似をして囃し立てる者も、その劇烈な印象以外の何も思い出すことができない。劇においては「台詞」が存在しない。言葉は何かを表現し理解させるためではなく、観客に幻視を催させるか、あるいは直接的に殴るために用いられる。(このことに気づいてからなぜか唐突にアルトーを読み始めた。ほとんど何の予備知識もなく、遠目からただ漠然と、「残酷演劇」とはこのことに違いないという直観を持った)

あまりに劇的な、反復を拒む一回きりの生。それは不可能な目的だろうか。そう考えるのではなく、問題の立て方を逆転させなければならない。すなわちこの目的、すなわち演技的な構造の破壊はむしろ、どんな卑近なドラマにおいてもすでに達成されているのではないか。このことは、それによって初めて劇が寸劇に堕することなく成立するような、まったくありふれた基礎的な条件ではないのか。そしてまた、それを超えてさらなる劇的なものを目指そうとする企図は、それがすでにこの上なく十全に実現されてしまっているという理由によってこそ失敗するのではないか。ところで、この劇的なものの条件には残念ながら最終的な客観性がない。だからアルトーのように、ふつう演劇と見なされているものすべてが茶番に見え、それを拒んで創り上げたはずの自らの演劇に対してすらも同じ感想を抱かざるをえなかった者、そもそも(狭義の)演劇の外でも、およそ言葉というもの一般に剽窃的な構造を見ざるをえなかった者がいたとして、彼をその吐き気から原理的に救済することは難しい。

演劇は、「演」じることの滑稽さと「劇」的なものの真剣さという、相矛盾する二原理の相克によって引き裂かれている。いくつかの問い──いかにして演劇はあらゆる反復的な構造を覆い隠して劇的なものを実現するのか。それがデリダの言うように見かけにすぎないとして、なぜそのような仮象がそもそも可能であり、また事実上もそこかしこで成立しているのか。しかし劇的なものはなぜ、演劇や物語のうちでのみ十全に実現可能であるのか。なぜ我々の実人生には劇的な瞬間がついに到来しないのか、劇的なものへの陶酔を阻み根源的なニヒリズムへと追いやる「滑稽な夾雑物」とは何か。現実の個人はただただ喜劇的であるほかないにもかかわらず、なぜ人はしばしば実人生をも物語のように、有意味なものとして生きようとするのか、その魅力とは何か──未だかつて明確に提起されたことのなかった、これらの問題群に取り組む学があらねばならない。美学でもあり言語哲学でもあり、そしてまた倫理学でもあるような、或る来るべき学が。


それにしても、これまで悲劇と呼ばれてきたもの全ては真に悲劇的とはいえない。破滅的な結末も結局のところ美しく、その一点において根本的に救済されているからだ。真の悲劇はむしろ、劇的なものの失敗にこそある。例えば、目も当てられないほど無様な、何の救いもないほど不格好な破滅。