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雑念を掬い上げる:瞑想と思索

眠りに入る直前にはその前触れがある。まったく脈絡のない想念が浮かんでくるのだ。布団でスマホを眺めているといつの間にか意識が遠のいて、あらぬ方へと考えが逸れている。ふと我に返って、今さっき何を考えていたのか思い出そうとするが、あまりに微弱で無意味な考えなのでほとんど思い出すことができない。そうなったらいつもスマホを脇に置いて、安んじて目をつむる。この入眠予報は例外なく的中するのだ。

これはごく短い夢、夢の予告編のようなものだと言える。夢もまた荒唐無稽であり、ゆえにその内容のほとんどを記憶していられない。あるいは思い出しおおせたときには既に、もともとありはしなかったストーリーを作ってしまってもいる。記憶と脈絡はセットで働くのだ。そして脈絡は覚醒時の理性(reason, 合理性・正気)が与える。その理性がいくらか混濁してきた入眠直前に、夢の薄めたやつを見るという仕組みだ。

ところで、よく気をつけて生活していると、こうしたとりとめのない考えは実は日中も生じているのに気づく。自分の例では、送電塔が連なっているのをぼーっと眺めながらふと、あの電線を伝って家まで帰ることを考えていた、とか。日中は比較的よく反省意識が働いて「いまの考えは忘れてしまいそうだ、なぜなら脈絡がないから」と思い、そして事実必ず忘れてしまう(反省的にそう思ったことだけを残して)。だから先ほどのように具体例を挙げるのも実は難しいことだった。むろん、こんな取りとめのない考えが常時浮かんでくるようになれば、まともな社会生活は望むべくもない。とはいえ観念の統合はけっこう緩むことがあり、ひとは程度の差はあれ定期的に気が狂っている。


我々は日々たくさんの想念を垂れ流しながら生きているが、その大部分に実は気づいていないのではないか。夢と同じく、思い浮かべた次の瞬間に忘れてしまうことによって。無意識なるものを掘り返すまでもなく、たくさんの魑魅魍魎が前意識に住んでいる。

我々はふだん、仕事とか人間関係とか、もっぱらそういう強い想念にかかずらっている。嫌な出来事があった後に、他人と話した後に、残ったダンプファイルが延々と思考のメモリを圧迫している。繰り返し同じ考えが襲ってきてはそのつど意識を占領していく。

瞑想とかマインドフルネスとかがターゲットにしているのは、そういう不快なまでに強度をもった雑念だ。呼吸に意識を向けて、すると雑念に意識が逸れて、しかしそれに気づくとまた呼吸に戻って、また雑念に逸れる。こういった想念の機微が観察できるようになってくると、突発的な自動思考や繰り返し襲ってくる想念からも少し自由になれる。

だが、この延長線上に一切の現世的なもの(すなわち苦)からの解脱を夢見るとしたら、それは卑小でありきたりな考えに思える。というのも、こうした瞑想の効用はどこまでも否定的、消極的なものでしかないからだ(例えば雑念を消す、すると苦から解放される、など)。「ものごとが明晰に観察される」という純粋な喜びにも実は、これまであんなに濁っていたのに今では……という優越感が潜んでいる。

だが、瞑想には実は創造的な使い方がある。それが、ごく微弱な脈絡のない想念に気づいて、それが消え去ってしまう前にはっきり見る、という方法だ。通常の瞑想では雑念とは消すものである。消そうと意志しなくても、雑念は単に気づかれただけでそれ以上成長しなくなって消えてしまう。つまりサティ(気づき)はふつう消去的に働くのに対して、ここではむしろ、最初から消えてしまいそうだった雑念を救い出し、現世に定着させる方向へとサティを働かせるのだ。

もしかすると瞑想の本質は、雑念を消すことではなく、それらの強度を正規化(ノーマライズ)し、全ての想念を平等に扱うことにあるのではないか。だから不快なまでに強い想念は弱められ、微弱な脈絡なき想念は掬い上げられる。生活のどの瞬間にも等しくかけがえのない、かつ等しくどうでもいいことが起こっている。これが「無常」ということの真意でなければならない。

瞑想の創造的な側面について確信に至ったのは、ヴィパッサナー瞑想の指導者ローゼンバーグ氏の何気ない体験談を読んだときだった。

私の人生経験からの例でいうと、近年になって、私は皿を洗うときに口笛を吹いていることに気づくようになりました。そればかりではなく、口笛で吹く歌は古いものになりがちで、一九五○年代のものが多いのです。

それからだんだんとわかってきたのですが、私は十代の頃、姉と皿洗いを分担していました。今は皿洗いなんてなんでもないことですが、当時の私にとってはひどく面倒なことでした。多分、いやな皿洗いをやりぬくために口笛を吹いたのでしょう。そして、あれから何十年たった今でも、私は同じ曲を口笛で吹いています。(ラリー・ローゼンバーグ『呼吸による癒し』井上ウィマラ訳、春秋社、24頁)

口笛を吹くというかなり目立つ動作を何十年とやっているのに、それに最近になってようやく気づく……人はかくも身近なことに盲目なのかと驚かされる優れた例だ。ところで彼は、それに気づいてからもあれこれ考えてみることを止めず、それどころかありうる一つの筋道を仮設までしてみせる。とはいえ、これ全体が雑念と言えば雑念ではなかろうか。それに気づいたからといって何か人生の足しになるわけでも、自己にまつわる真実が明らかになるでもない、たわいもない思いつき。

そうした方向にこそ、なぜか心惹かれる。それはおそらく、今こうして書いていることも、いや、およそ自分の考えごとのほとんどが、そうやって大事に掬い上げてようやく形にしてきた微弱な想念の集まりだからだ。およそ思索と呼べるものはみな、考えようと努力して産み出すものではなく、送電塔や口笛のように、そこにある思想の存在にただ気づいていくものではないか。コーヒーを淹れて机に座ってキーボードに向かうことは思索の開始の合図ではない。思想の種はそこらじゅうに転がっており、しかも決まって理性が薄まったときに湧いてくる。そうしたら、考えが生じた瞬間にサティを入れる。その先を考え続けようとする必要はない。また同じ想念が、少し姿を変えて巡ってくるのを待つだけでいい。思索というものが探索、索敵、捜索的な性質をもつ限り、思索と瞑想とは一つのことである。