フィクション恐怖症と現実における不感症
しかし、フィクションに心が動かされるというのはやはり不合理なことではないのか──いくら真のリアリティが虚構のうちにあるとはいっても。観ている当人に不幸な出来事(例えば親しい人の死など)が降りかかってきたわけでもないのに。
こんな見方がありうる。ひとは物語を観て本当は悲しんでなどおらず、誤って悲しいと思い込んでいるだけである(エラー説)。あるいは、悲しんでいるのは登場人物であって、ひとは彼らの悲しみと自分の悲しみを取り違えているだけである(錯覚説)。確かにそうかもしれない。確かにひとは物語から損害を被ってはいない。フィクションにそうした実害はないし、あったとしてもそれはお前の不幸ではない──だが、だから何だというのだ。何がエラーであるか、何が錯覚であるかはここにおいてアプリオリに決まっていようか。それを言うなら私は、現実の自分が痛めつけられて悲しくなる方がよっぽどエラーであると、たかが現実の登場人物に移入し同一化する方がはるかに錯覚であると言いたい。
……いや、そこまで言うつもりはなかった。だが一つ言えることはある。実は我々は誰もが、実生活の中で感情をもつことなどほとんど無いのではないか。どんな現実の出来事も、実はさほどひとの心を動かしていないのではないか。例えば悲しい出来事に接したとき、感情の波がワッと物語のように湧き起こることはなく、ただ鬱々とした気分を延々と引きずるのが常である。スポーツ選手でもない限り歓喜に溺れることもなく、一般に現実においてカタルシスは生じない。感情はあっても薄く伸び広がった雰囲気のようなものにすぎない。
それは、現実はけっきょくのところ平和であり、ドラマティックな危機も、絵に描いたような非業の死も起きないからだろうか。いや、ここにあるのは、そのような単なる事象内容の問題、起こったり起こらなかったりする出来事の種類の問題ではない。それは或る場の問題、その場がもつ引力の問題でなければならない。まったく同じ出来事も、物語的な磁場に置かれれば悪魔的に引き込む磁石になり、しかしその外に置かれてしまえばもはや同等の磁力を持ちえない。どんなドラマも、現実に起こっているというだけですでに色褪せ、感動も陶酔もあらかじめ割り引かれている。
だとすれば、現実において心が動かないのはむしろ自然なことではないか。たかがフィクションに年甲斐もなく心を揺さぶられた、などと恥じる必要はなく、それを例外事例だと見なしてあれこれ阻害要因を探す必要もない。むしろこうも言えるはずなのだ──なに、よりによって現実の中で感情的になったのか!? それはエラーか錯覚ではないのか? 君、何か調子でも悪いのか? だって現実というのは誰にとっても、そんなに夢中になるのが定義上馬鹿げている場所のことではないか。この白々しさ、吐き気、興醒めこそが、つまりは現実にいるということなのだから……
しかし、この現実にもときどき、本物の感情が湧き起こってくるときがある。本物の怒りに突き動かされて行動するとき、真正の悲嘆に暮れるとき。そうした劇的な瞬間は、実人生においてもたまに訪れる。それはこの現実が、この現実もまた、あたかも一つの物語であるかのように捉えられているときだ。ある局面はそれを包み込む一篇の物語の部分として位置づけられ、状況全体がその筋立てに沿って強力に意味づけられる。そうした道具立ての一切は、物語の中から現実へと借りてこられるものだ。だから、感情の定義的現象はフィクションの鑑賞体験なのである。実人生においてもつ感情はみな、その物語的な要素を分有することによってのみ感情たりうるのだ。
とはいえ、ここにおいて「物語的」という語はもはやフィクションだけを意味することはできなくなる。確かに私は原則的には、虚構は熱を帯びたもの、現実は醒めたもの、という(常識的通念とは逆の)対応関係を強調してきた。だが、それもまたアプリオリな区別ではありえない、というのもやはり重要なことだ。例えば現実のこの興醒めなつまらなさによって、(ほっぺたをつねるように)夢と現実とを区別することはできない。この現実が「夢のように」映視することは十分ありうるし、逆にあたかも現実にいるかのようなつまらない劇もある。
だから教えて欲しいのだが、現実であろうとフィクションであろうと、一般に或るものが物語のように、ひとを否応なく没入させる力をもつための条件とは何なのか。一言で言えば、劇的なものの条件とは何か。それを知って「作品」を創りたいわけでもないのに、それを知りたいと思っている。
(これを書いた直後に意を決して映画を観に行き、全治三日間の傷を負った)