フィクション恐怖症
映画やアニメをほとんど観ない。いや、観ることができない。決して嫌いではなく、むしろ好きなはずなのに、なぜかいつも習慣として定着しなかった。それで文化的な素養がないのを嘆いて、たびたび物語を意識的に摂取しようと努めては、ことごとく挫折してきた。
数年前からその原因にはうっすら気づいていた。昔こんなことを言っている人を見かけて、それははっきりと確信に変わった。
妹1は映画を全く観ないんだけど、その理由が「心を動かされたくない」
— mariekko (@stem910) June 6, 2018
これを見て、自分もまた、物語にいつもひどく心を乱されてきたという事実にようやく気づいた。ありていに言えば、感受性が強い人間だということに。
それはかなり不本意なことだった。自分はどちらかといえば感情の起伏の少ない、つねに平静な人間だと思っていたし、周りからそう言われることもしばしばある。実際、現実の出来事ではほとんど心が動かない。酷い仕打ちをされてもその人への怒りは湧いてこない(ただ黙って対策をとるだけだ)し、不幸な出来事に接しても、その悲劇的な気分に浸りきることができない。これらは瞑想の成果というより、その意味でもともと瞑想的な(反省的な・メタ意識的な)人間もいるという話だと思う。そんな自分がまさか、たかが作り話に心を乱され、いまだに大きなショックを受けるというのは矛盾に思えた。だがこの事実は、これまでの自分の不可解な行動すべてをうまく説明していた。なぜ物語を見た後にしばらくまともな実生活を送れなくなるのか、なぜ中学生の頃からアニメの最終回だけを見ない癖があったのか、劇的な展開のない「日常系」のアニメばかりしか見なかったのはなぜか──これらすべては、フィクション恐怖症という一点から説明がついた。
心を動かされたくない……ただの娯楽のつもりで見始めたのに、ひとたび没頭してしまうともう、次の回を見るのが恐ろしくなる。話の悲惨な展開にではなく、虚構世界の中に自分が丸ごと吸い込まれて戻ってこれなくなるという自己喪失の恐怖に怯える。再生ボタンを押すとき、手の甲にナイフを突き立てているかのような錯覚に陥る。屋上から飛び降りる気持ちでボタンを押す。吸い込まれそうになると思わず布団を抱き寄せて、見終わると放心状態になる。しばらく忘れて日常生活をしていてもふと、彼らがあんなに懸命にもがいているのに自分はのうのうと暮している、という謎の罪悪感を覚える──フィクション恐怖症の症状一覧。
そのくせ、ちゃんと作品に入っていけるように、部屋を暗くして環境を整えたりする。流行っているが関心が持てない作品を一日一話づつ服用することもあるが、それが心を打たないことをどこか軽蔑してもいる。ありきたりで、毒にも薬にもならない、と。つまり他方では心を動かされることを、その毒を、自ら求めてもいるのだ。心を動かされたくない、でもやっぱり動かしてほしい。物語によってしか得られない固有の愉しみが欲しい、だがその快楽が大きければ大きいほどどうしようもなく苦痛を感じ、最後には遠ざけざるをえなくなる。(ところで、引き込む力が強い作品はやはり「悲劇」が、すなわち悲惨さや過酷さがベースにある物語が多い。悲劇の本質はそういった悲しい気分にあるのではないと前に指摘したが、とはいえ逆に、どんな悲しい気分にも劇的なところがある。沈んだ気分にはどっぷりと浸りたくなるところがある。逆に愉しい気分は「浮かれた」気分であって、そこに没頭していく感じはあまりない)
一つ確かなことがある。それは、ふだん生活しているときには程度の差はあれつねに働いていたあの反省意識が、鑑賞中、はっきりと欠如していることだ。瞑想などに代表される、物事に前のめりになる姿勢を制御し、自分を無感情な人間たらしめていたあの覚識が、物語の中ではまったく失われてしまう。ちょうど夢の中で小学生に戻って好きだった子を追いかけているときのように、単純素朴で惑わされやすい(非暗示性の強い)人間になってしまう。これは催眠ないし呪術の原理であり、それの対抗呪文、解呪の儀式が瞑想だったということになる。だからフィクションに吸い込まれたくなければ、傍に砂時計を置いたり、風呂にお湯を貯めながら観たりすればいい。時間意識は反省意識と連動して、鑑賞体験を見事に台無しにしてくれる。
そうではなくちゃんと心を動かされたければ、反省意識が弱まっているときに見るのがいい。物語によく吸い込まれるのは精神状態が悪いときだ。健康なときに見てもちっとも響かない。おそらく、向こう側の物語とこちら側の覚識とが力比べをしているのだ。こちら側で自我という操り人形を引っ張り上げている糸の張力が、物語という重力場の引力と綱引きをしている。だから、わざとこちらが弱っているときに観ている。負けると分かっていて、わざと力を抜いて引き摺られて、いつも大火傷をしている。こちらが勝っているときは、物語を見終わっても、もう一つ別の物語へと帰ってきたように感じることがある(実人生が強度をもって保たれているとき)。逆に、物語の世界の住人になりたい、そちらに入って二度と戻ってきたくない、と思う人はかなり衰弱している。