思考という地獄
哲学という活動のもつある特異な側面に、身体を蝕まれ、生活を破壊されていると感じる。すなわち、思考という活動に。まさか、思考なんて何をするにも必要ではないか、と思われるかもしれない。だが、それをかくも凝集された仕方でひっきりなしに要求する活動は他に類例がない。哲学は万学の祖であることによってではなく、およそ思考というのものの定義的な活動であることによって、万学の女王と呼ばれるのではないか。
ここに、思考というのがその内容にかかわらず人間にもたらす毒について書き留めておきたい。哲学はその範例として、しかし単なる一例として。
思考することの困難。まず、どんなに頑張っても40分くらいしか集中力が保たない、という点に異常性を感じる。そして体調と精神状態のコンディションが90%くらいでなければそもそも話にもならない、という点にも。ちょっと休憩してすぐ再開、というわけにもいかない。思いのほか疲弊しており、何か大いなる気晴らしを必要としている。だから一日に3サイクルくらい回れば十分、と言わざるをえない。また、そうした最良の日が1週間毎日続くことも決してなく、病苦と快癒の間をつねに行き来することになる。
これらはずっと自分の精神の欠陥だと思っていた。つまりちゃんとした病名があり、つける薬もあると信じていた。だが、3時間ぶっ続けでコードを書いたり、何の苦もなく一日中オフィスワークをできることを鑑みて、これは──信じたくはないが──哲学の側に問題があると悟った。
他には、仕事をして夜に帰ってきて、さあ哲学書を読もうとはならない。なので小説を読んでいる。思索には疲れを引き継いでいない自由な一日が、最低でも一日の前半が要求される。他人と会話をした後には、どんな良いものも一旦すすぎ洗いをしなければならない。こうした理由から酒も飲みたくない。なぜ頭を徒らにぼんやりさせる液体を飲まねばならないのか、覚醒と冴えをもたらす薬なら毎日でも飲むが。そして同じ理由で、じつは食事をすることにも少し後ろめたさがある……
ただし例外的に、最も冴えた生産的な日には40分制約が取り払われる。茶菓子を取ってきてはまた戻って考え、外に出て散歩しては戻って書き足して、それでも90分程度だが集中が続くことがある。だが、こうなったときには大きな反動を覚悟しなければならない、良くないスイッチを入れてしまったのだ。カフェなど、外で作業をするとこのスイッチを入れてしまいやすい。こうなると風呂に入っても布団に入っても休みなく延々と考え続ける羽目になる。哲学のことに限らず、このサイトに辛うじて書き留めているような脈絡なき想念群が大挙してくる。そうなった翌日には必ず、疲労困憊して動けなくなった自分が布団の中に取り残される。
考えることは、それ単独でしなければならないとき予測しがたい疲弊をもたらす。仕事やスポーツで疲れるなら分かるが、ちょっとペンを動かす以外は何の動きもない、こんな楽な活動が大変なはずがあろうか──そう自分でも高を括っているから、いつも無自覚なまま過労でダウンする。といっても哲学ができないだけで60%くらいの力があるので、それ以外のほとんど全ての活動ができる。ふざけた話だ。
生活から思索に潜っていくときには特有の水圧差のような押し返しを感じる。深海はただ居るだけで体力を削られ、一歩歩くのにも怪力がいる。しかし何よりこの水圧差を、生活のほうに戻っていくときに強く感じる。水面と深海をもっと自由に行き来できるようになりたい。
最近では反動を見越して、自分でスイッチを切ろうとしている。傾きかけたシーソーの反対側に全体重を掛けて、頭をぼんやりさせる努力をしているのだ。ここで先ほど書いた忌避項目すべてを逆手にとって、早い時間に夕食を取り、カフェインレスコーヒーの代わりに酒を(それでも少しだけ)飲み、しまいには布団にくるまり五感を遮断してクラシックを聴いたりする。音楽は逆効果かもしれないが……
コードを書くのも実ははけ口だと気づいた。ふつう頭脳労働と呼ばれるものすらここでは休息になりうる。それに、プログラミング言語も結局は語学の一種であり、考えなしに話せるものなのだ(読む方がはるかに難しい)。しかしこの語学だけは自分にとって好ましい。それは「形式衝動」──と自分が勝手に呼んでいるもの──のはけ口になってくれる。思索の反動として、何の意味もなく些かも人間的なところのない、単なる論理操作しかしたくないフェーズが来るのだ。この衝動にうまく折り合いをつけないと、哲学的思索の中にまで単なる形式性を持ち込むことになり、真理ではあるがただ真であるだけのゴミがうずたかく積み上がる。その後片付けは誤謬を片付けるよりはるかに高くつく。なにせ腐っても真理なのだから。
反動ダメージの程度には何段階かある。それは何を気晴らしに選べるかによって計ることができる。歌を歌いたくなるときは最も良いが、同じく音楽が聴けるときもかなり調子が良いときだ。音楽鑑賞は体力を要するわけではないが、なぜか活力のある状態が前提となる。まあまあの調子のときには低俗で滑稽なものを笑って楽しむことができ、そこから少し落ちても、ひとが会話しているもの、テレビないしラジオ的なものを聞くことができる。もっと悪くなると文字情報に吸い込まれる、例えばネット上に氾濫する悪い文字情報に。そして実はプログラミングがこれと同じ段階にある。それよりもっと悪く、本当に何も考えられないときには、自分の心をまったく動かさない余所事しか受け付けなくなる。例えば、自分が大してプレイしたことのない、かなり難解なゲームの解説実況。ちなみに寝る前に見るとほぼ必ず眠くなれる。この段階は、例えば非常な腹痛で便座に座り込んでいるとき、痛みから気を逸らすために何を選ぶかに似ている。
この段階から振り返ってみると、「痛み」には実際に痛くないものから始まる様々な程度があり、それを打ち消す眠気にも何か比喩的な眠気があることが分かる。例えばコーデイングや仕事をしていると「眠く」なることができるし、人は程度の差はあれそうやって人生をぼんやり過ごしている気がする。
結局のところ、精神にまつわる病苦は思考が(結果ではなく)その原因なのではないか。いやむしろ、病苦とは思考のことではないか。四六時中何かについて考えている状態は、その内容とまったく無関係に、人に害悪をもたらす。例えば人間関係の悩みがずっと頭にある人も、その悩みの中身によってではなく、つねに考えざるをえない問題が頭を占領し続けることによって消耗し、脳への器質的なダメージが蓄積するのだ。だから、その「問題」を数学の未解決問題に置き換えても同じ症状が出るだろう。考え事の中身の不快さが病苦をもたらすように見えるのは、ふつう人は生命の危機(を希釈したもの)に瀕したときにしか思考せず、そうでない問題を考える実際的な動機がないから、にすぎない。逆に言えば、この異常な動機づけがひとたび形成されてしまえば、学問や芸術も同じ病苦をもたらす。