クリシェと括弧と他人事
ここ一ヶ月ほど、とても安定している。相変わらず体調は良くないけれど、精神はとても平穏で、どこか満ち足りている。
何より驚くべきことに、本を読むということができるようになった。以前の5倍くらいのスピードで読み進められるし、そもそも「あの本が読みたい」という欲求がちゃんと湧いてくる。論脈を区切るための七色の付箋は、最も重要な箇所に使う赤色をまっさきに切らした。
少し前まで、絶望的に本が読めなかった。初めて読んだはずのものに強烈な既視感を覚えていた。だからどうした、またそれか。もう散々見たことがある気がする初見、うんざりするほど繰り返された一回目。こんな凡庸で取るに足らない見解を、どうか書き手は心の底から書いたのではありませんように! 単なるクリシェを真似してみせていただけで、「……などということが巷でよく言われていますが」と、最後に全てをひっくり返してくれますように……
最悪だった。しかし本当の最悪は、自分自身の中にそうした繰り返しを見つけたときにやってきた。自分の書き物のなかに手癖を見つけ、自分の思考がお決まりの展開に沿っているのに気づいたときに襲ってくるあの吐き気! ふつうは吐き気がしたなら吐き出せばいいし、他人の書きものなら本を閉じて遠ざけておけばいい。だが自分の内臓に吐き気がしたときはどうすればいいのか。典型的な自己免疫疾患。自分で自分を貪り食うのを止めることができない。
開き直って、この感覚を検知機能か何かだと思い込むことにした。例えば執筆していて、いくら体調を治しても気分が晴れないときには、「ということは今書いている箇所は上手くいっていないのだな」と断定する。自分が目下産み出しているのがガラクタであることを、その張本人である思考は知ろうともせず、そのしわ寄せを被った身体の方だけが薄々気づいているのだ(気分も身体に属する)。確かに、お告げに従って一から書き直してみると、さっきのは行き詰まりから生じた苦肉の策であったと気づかされる。こうして自分自身は一つの実験器具になった。少しスカッとした。自分にこんな罰ゲームを課した悪霊に、その罰を逆手に取って有効活用までしてみせて、そうやってささやかな反逆をしている気がした。
こんな暗い話をするつもりはなかった。だがこれを書いている自分はとても愉快な気分で、何なら歌まで口ずさんでいる。これを笑い話か何かだと思っているらしい。
ところで、もし上のような話を「私はまさに今こんな境遇にある」という告白の形式をとってする人がいたら、自分はそれを自己劇化だと断定するか、せいぜい半身浴くらいだと高を括りたくなる。人は自らがまさにそれであるような事柄について「私はこうである」と語ることなどできない。そして、自分の鼻先数センチに突きつけられた最悪も、ひとたび吃らず言葉にできるようになったときには、既にどこか他人事のようだ。「最近こんなことがあったんだけど」という雑談の前置きは「巷で言われていること」に似て、実感を込めて語れば語るほど面白おかしい一個のエピソードトークへと出来事を包装する。言葉にされた事柄は額縁の中に入って弱毒化され、気分を害さず美的に鑑賞できる一つの「お話」になるだろう。
どういうわけか、言葉というのはもともと他人事しか語れないようにできているらしい。だからもし、そうした距離を取れないほど切迫した事柄を語りたいならむしろ、それを自分ではないものへと仮託し、借り物の言葉で語るのがよいのだろう。自分の言葉で話し始めて、やっぱり今のは冗談だったと全てを取り消したくなる前に、もう一枚の仮面を。知らず知らずの自己欺瞞から、誰の目にも分かる欺瞞へ。もう語ることで自己を韜晦しなくて済むように、あらかじめ全てを括弧で括って。