書く不健康/読む健康
日記の必要のない一日が最も良い一日である。そう昔から確信していた。日記を書いているその時には「今日はこんな良いことがあった、これからあんなこともしてみようか」という内容豊かな一日こそが充実した良い日に思える。だが、良いことがあったのならなぜ、それに加えて「良いことがあった」と書かねばならないのか。しようと思っているならなぜ、「しようかな」とわざわざ言ってから実行するのか(あるいは結局しないのか)。そう、こうした多弁は例外なく変調の兆しだった。本当に良い日はしようと思わずに実行し、嬉しかったこともすぐ忘れる。
ここ最近はずっと日記の必要のない生を送っている。本はたくさん読めるし、思考することへの出元不明の強迫感もなく、アニメはまだ怖いけれど自分で見ようと決心できるようになったし、同一の曲の無限ループもなぜか緩和された。これらはみな同じ病の現れにすぎなかったのか、ともかく連動してすべてが凪へと近づいていく。
この健康さと引き換えに、このサイトに書くこともまた特に無くなった。そして、それもまたこの満ち足りた状態の正当な帰結であると、後ろめたさなしに受け容れることができている。こんな日々が再び訪れるとは思ってもいなかった。だから今、何も書くことがないということそれ自体について書き留めている。何も言うことがない、というのは最も簡潔な幸福の定義であるように思える。だから好きな作曲家や存命中の思想家の幸福を願うこともできない。
この高低差によって、さまざまな細かな差異を見つけられるようになった。例えば、何も書くことができないというのと、書くべきことが特にない、というのは微妙に違うということ。自分の興味に従って本を読む、というのにも病的でないやり方があること。つまり、本とのいわば鏡像段階に入って、テクストの中に自己を見出しては愛したり殺したりする必要は必ずしもなかったということ。そして、そうでない健全な仕方でただ読むときにも働いているような、痛みの伴わない思考があることも。
それから、書くべきものがあり、それを書く能力もあるときというのがなぜ、それにもかかわらずある種の不健康に陥っているときだったのか、それも少しづつ掴めてきた。
病気と創作的な仕事との関係。この問題を考えるとき人はすぐ、健康な人ほど生産的であるとか、あるいはそれをただひっくり返して、私は病気であったからこそ生産的であることができた、などと言いがちである。だが、生産性を根こそぎ奪われるような不健康もあることをまずは指摘しなければなるまい。草木の生えない不毛な健康があるのと同様に。
むしろここでの不健康とは「書くことがある/何も書くことができない」という対立の空間全体を指す。つまりこの空間の中に生産性を根こぎにされた不毛な不健康と、それの反動としての「書くべき何かがある」という病的な健康の両方が属し、それら対立空間の外に「特に書くことがない」というまったき健康が位置するのだ。何も書くことができないという絶望的な無能力もまた書きうることの一形態であり、ただそれを身を潜めながら準備しているだけである。しかし、そうして溜めた力を一挙に解放しつつ上昇しても快癒にだけは決して至らず、ただ引き換えに多産性を得るだけなのである。
この空間の外に出る方法は定式化されていない。気づいたら脱出していた、ということがあるのみだ。しかし思い当たることはある。それは書くことの逆、「本を読むことができる」という健康さに要約されているものだ。つまり、他人の狂気を養分にして生きることができる、という状態。自分の代わりに彼らが泥を啜り、そのおかげで自分までもがその同じ狂気に陥る必要はもはやない、ということ。自分が一から考え出したことが既に彼らに言われていたときの安堵感。ただしそのためには、自分をその問題系へと接続するアダプターだけは自力で賄わねばならなかった。昨日の自分の狂気を踏み台にして、今日は高い木々から果実を取り放題にできる。でも明日にはハゲ山になっているだろうし、あさってにはもう何も口に合わなくなって、また延々と書く羽目になるだろう。
変な話だが、私にとって「書く」は「泣く」という行為の感覚に近い。言葉が溢れるか、涙が零れるか、そこに大差はないように感じる。引用元
書くことの不健康さは、四六時中泣いている人のそれに似ている。いつも自分の容量をオーバーするものを抱えている状態。日記を書くのが空隙を埋め合わせるための余剰であるならば、こうした非生活的な文章を書くことはむしろ何らかの過剰の存在を示唆する。よしんば笑い泣きであったとしても、それはひどく心身を消耗することだろう。
しかし見方を変えれば、泣くことは──その行為自体は病的に見えても──消耗するために使える、あり余る体力の証だとも言える。実際、正真正銘の病気は人から涙を流す能力そのものを奪う。その意味では、自分の中に何らかの過剰を持ち、それを持ち堪えうるというのもまた、そういう一つの健康の形なのかもしれない。