世界解釈学会と仮説の本質
「りんごが木から落ちることと矮星が巨星に吸い込まれること、この二つは実はある意味では同じことなのではないでしょうか? もちろんこの二つは全然別のことです、それは分かっています、だから無理を承知で提案するのですが……」
二つの独立した事態がある意味では同じことではないかと提案すること、かつ、それらが同じに見えるようなある特定の観点とともにそうすること、これが仮説の本質である。
「同じこと」だと見なせるのはこれまで観測された事柄とは限らない。未来の事柄を同じものとして括るとき、それは予想と呼ばれる。例えば、矮星が吸い込まれるのと光が吸い込まれるのは同じことではないか、という仕方で。
仮説は検証も反証もされない。りんごの落木現象も潮汐破壊現象(矮星がブラックホールに吸い込まれる現象)も観測によって検証できる。だがその二つが実は同じものであること、同じと見なせることは検証できない。仮説はそれぞれの断面においてのみ検証される。
仮説はさまざまな断面をもつ。しかし断面それ自体はもはや仮説ではない。それは仮説ではなく「現象」と呼ばれる。同じ一つのものが多様に現れる、というときの「現れ」もそうだ。例えばりんごの落木は万有引力の法則の一つの現れである。ここで、矮星の潮汐破壊現象もまたこれと等しく「現象」である、ということに注意せよ。りんごは直接知覚されるがブラックホールは実験器具を介して間接的に我々に現象するにすぎない、という違いは重要ではない。検証されないのはこの二つの同一性だけである。そして、たとえ天体の観測され方がふたたび仮説的であるとしても、それがこの当該の仮説の直接的な現象形態である、ということに変わりはない。
仮説は自分に対する反論を自由に取り入れたり無視したりできる。「だが君、机の上の紙とペンは引かれ合ってなどいないではないか」といってもまだ反証したことにはならない。仮説はただ「それは私が言いたい《同じこと》とは関係がない」と言うこともできただろうからだ。
仮説が「それは同じことだ」と言い立てる範囲には通常、限りがある。「喉が痛むことと鼻水が出ることは実は同じ一つのことではないか?」人はほどなく「咳が出る」もこの同類に含めたくなるだろう。だが「気分が落ち込む」「膝の関節が痛い」など増やしていけばいくほど仮説は無意味に近づく。
仮説によって認められた反論だけが「反証」と呼ばれる。仮説は自らの介錯人を自分で選ぶ。だが仮説は大抵、したたかに延命処置を用意している。例えば「喉は痛むが鼻水は出ない」という反証が認められても、その反証ごと仮説の中に取り込まれてしまうかもしれない。「鼻水は風邪の一種だが、その徴候にすぎないことが分かった」といって。その代わりに咽頭部で増殖しているウイルスを見つけてきて、それを新たな規準として立てるだろう。そのときひとは「風邪というものの本質が解明された」と語っても構わない。しかもそれによって古い方の仮説も一緒に延命されて、適当に診断するときには徴候の方で間に合わせてよいことにもなる。紙とペンは引かれ合ったりなどしない、という反証の方はもっと巧妙に仮説の中に取り込まれた。それは通常の事物の間に働く引力は極めて小さく、事実上無視できるからなのだ、といって。
いま反証について述べたことは検証についても言える。やっぱり光を飲み込む星が観測された、仮説が言った通りだった! とはいえその検証条件、すなわち実験器具や結果の読み方もまた当の仮説体系が与えていたのである。体のいいマッチポンプだが、こちらは「観測の理論負荷性」という名前でよく知られている。
むかしむかし、ギリシャより昔、「世界解釈学会」なる学会が存在したという。その名が示す通り、彼らが論じていた事柄は今日の諸科学が拘っているような些末な経験的法則などではなかった。にもかかわらずそれは、彼らが議論していたまさにそのときにはまだ、一つの法則に過ぎなかったのである。
その学会は合議制だった。例えば議事録にはこうある。ある日、机の上のりんごを囲みながらこんな提案がなされた。「目の前には赤色の丸がある、それは茶色の背景に縁取られている。ところでいま、手を前方に突き出すと硬い感触がして、手は少し押し返される。さて、この二つは実は、ある意味では《同じこと》だと言えるのではないか?」
議論は紛糾した。赤い丸が見えるのと手が押し返されること、この二つは見れば見るほど似ていない、まったく無関係だというのが大多数の意見だった。とはいえ質疑応答は理性的になされた。「何やら甘い香りが漂ってくるが、これはお前のいう《同じこと》に含めるのか」「それはいい、そうしよう」「私はいま暑くて汗をかいている、これはその《同じこと》に含むか?」──「否、何の関係もない」。議場はまた紛糾する。何を含めて何を除外するかが提案者の恣意にかかっている、というのがさらに反感を買ったらしい。
しかしどういうわけか、この提案は賛成多数で可決されたという。いかなる合理性に従ってか、それはもう今日の我々は窺い知るほかないのだが。質疑応答の終盤では質問者はみな、提案者がその《同じこと》に何を含め、何を含めたくないかを口々に言い当てることができたという。そしてその《同じもの》には「対象」という名前がつけられた。かくして今日の我々においても、対象が存在する、という一つの仮説が妥当しているのである。
対象の存在は一つの仮説である。哲学者はしばしばそれを「確実性の低い命題」という意味で受け取って、「そう見えただけで実際には無いかもしれない、直接触れたとしてもなお錯覚かもしれない」などと考えた。しかしこのようにして仮説に楯突く者すら、自分がなぜ見ることと触れることを同一視したうえでそれを疑っているのか、もはや知らない。
《世界解釈学会》はまずもって「対象が存在する」ということの意味を与えたのだ。それが実は無いかもしれないとか語るときにも前提とされてしまう意味を。そして彼らは論文を書く代わりに、その研究成果をわれわれの言語の中へと直接書き込んだ。だから我々はものが見えていようと触れられていようと「対象がある」という同じ文を発するのだ。我々は言語を使うだけですでに彼らの研究成果を参照してしまう。そのことはこの、我々が同じ文を使い回す、という事実のうちに示されているのである。
参考文献
- L. ウィトゲンシュタイン『ウィトゲンシュタインとウィーン学団』黒崎宏・杖下隆英訳, 大修館書店, 1976年.