世界を挿絵化する
「対象的世界の存在は一つの仮説である。低い確実性しかもたないと言うのではない。そうではなく私は、それはただ構成されたものであると、諸々の現れを結び合わせて初めて浮かび上がってくる絵であるとだけ述べるだろう」。こう別の哲学者は言った。
懐疑論者が疑っていたのは世界の存在の真理性である。そして彼らに欠けていたのは意味の観点である。なぜ、見えたと思ったが触れられなかったものに接して「このものは実在しない、私の見間違いだった」と語らねばならないのか。見えはするが触れられないような何ものかが存在する、と語ってもよいのではないか? なぜ「猫だと思って近寄ってみるとビニール袋だった」と語らねばならないのか。「猫がビニール袋になった」と語っても良いのではないか? 同じ二つの点を結び合わせる線の引き方は一通りではありえない。そして真理性は線の引き方に応じて変わる。
そんなものが哲学の主要問題になる資格があろうか。世界が真に存在するかどうか、それはもうどうでもよいことだ。それより、なぜ我々はこのような線の結び方をするのか、なぜ他でもないこの星座を見続けているのか、それだけを問題にすべきではないか。
意味だけを問題にし、その真理性をわきに置く方法。それは簡単だ。文字通りの絵と、それの意味解釈を問題にすればよいのである。例えば風景画に対して「これは描き手の前にある実際の事物を表象していないのではないか」と疑う懐疑論者がいたとしたら可笑しい。それはそうかもしれないが、とはいえ鑑賞とはもともと、ただそれが何についての絵でありどのように描出されているか、だけを捉えることなのである。対してひとは自分の知覚像を、目の前にある実際の対象が本当に映っているかどうか、という点をひどく重視しながら鑑賞する。というよりこのような関心(志向性!)が介在するので知覚は鑑賞ではないのだ。関心ありの鑑賞、というのは形容矛盾なのである。
しかし、関心なき現実的知覚というものが実は可能である、ということをその哲学者は主張した。そして実際、そのように見られた世界は文字通りの絵になるのである。
ある人の意識経験を録画してサンプルとして採取するとしよう。その映像を人々に見せてこんなアンケートをとる。この人が見ている対象は何だと思いますか? また、この対象は本当に存在すると思いますか、それとも当人の錯覚か幻覚だと思いますか? この録画には視覚経験の動画だけでなく、触覚や嗅覚、その他内的感覚も含めた意識現象の全てが収められているとする。
これらの設問はみな映像の意味を問うている。すなわち、あるシーンと別のシーンを結び合わせる線の引き方を。右手を伸ばしてぶつかった、次に左手を伸ばしてもぶつかった──この二つのシーンはある意味で《同じこと》の現れではないか。私はそれを「両手で同じ対象に触れている」という仮説によって結び合わせよう。その上で次にその硬さやザラザラさを吟味し、さらに視覚情報も総合して、この映像は「目の前に樹木がある」ということを表している、と答える。
これらの設問が問うていないのは、この映像に実際の実在が対応しているかどうか、つまりこの映像自体の真贋である。この映像はその人の実際の経験だと思いますか、それとも人工的に作り出された映像であって、本当はそんな出来事は起きていないと思いますか? 回答は当たったり外れたりするだろう。そして、この問いには原理的な答えはない、というのが模範解答になるだろう。というのも映像というのはそもそも、映像化されたその時点で、それが現実の被写体を前に撮られたものなのかどうか、という情報が欠落してしまうものだからだ。それを映像の内側から読み取ることは自明にできない。この前提は懐疑論者の疑う意欲をも削ぐ。
まさにそのためにこそ、意識表象を録画された映像へとあらかじめ落とし込んでおいたのである。そこで出題の意図をはっきりさせるために、設問は「この人が見ているのは何でしょうか」と問う代わりに「次の例は何を表した映像でしょうか」と問うてもよいだろう。それによって映像は国語の教科書の挿絵のようなものになる。左側に描かれた挿絵を見て右側の空欄を埋めるという訓練に、このアンケートは類比的なものである。