placet experiri :: 27

像としての意識、意識としての像

私は私が見ているものを見る、これが意識の根本定式だと言われる。だがそれは、私は私が書き込みを入れた像を見る、ということではないか。私は私によって解釈を施された解釈済みの像を、したがってそれ以上解釈を許さない像を見る──一義的な像を。

ゆえにそれが何であるかを言うことは絶対的に容易い。それは答えが絵に書いてある判じ絵の意味を答えることに等しいのだ。像の意味は自ずから-明らかである。像はそれ自身で語る。明証性とはそういうことだろう。だから私は自分自身の意識表象を見ながら、これは願望だろうか、それとも予期だろうかと考え込むことができない。それは対象の意味も私の志向も区別なく描き込まれた像である。無論、そんなものが実在した試しはないのだが。

映像は多様に解釈されうる。だが、私によって見られた像、私にそう解釈された限りでの像は、それが何であるかを直接、私に語る。こう言えば単なる文法の問題(解釈されたものは解釈されない)に見える。ところで、この「私に見られた限りでの像」の方しか存在せず、その先にある実在としての映像が存在しないようなケースが実際にある。それは想像である。

想像においては、絵そのものと、それに対する私の解釈とを分離することができない。私にそう解された限りでの絵、それが最初から想像イメージとして登場するからだ。例えば誰かを思い浮かべ、ついでにその顔が思い浮かぶなら、そのイメージはとにかく彼を表しているのだ。私が見間違えていて、「実は」他の誰かの顔だったということはありえない。私は私がその像の中に置き入れたものをしか見ない──ちょうど私が映像を解釈するときのように。ただし実在の映像の場合、その同じ映像を別の仕方で見ることならできる。意味を見替えることが。しかし想像イメージはさらに二つの現れ方をとることができない。それ自体がすでに現れ方であるがゆえに。

像とその意味はここにおいて完全に癒着している。ゆえにそれは星と星座の比喩をも絶する。もし星たちが別の結び合わせ方をされたなら、それは全然別の星座として再登場することになるだろう。それもまた同じ星たちから成り立っている、ということには誰も気づかずに。想像イメージとは、結び合わせた線をほどくと点まで消え去ってしまう星座のことである。

そして結局、このことは意識表象一般に当てはまるのだ。それは別の絵として解釈されると実際に別のものになってしまう絵、何かとして捉えることをやめたとたんに蒸発してしまう絵である。だから意識表象は事実、写真や絵などの表象とは似ても似つかない。意識表象はむしろ、何かとして捉えられた限りでの絵、肖像画の内に見られた人物の像そのものに類比的である。像は決して世界の中に存在しない。それは事物としての映像や画像の内に観て取られるものとしてのみ存在する。

ということは結局、これは類比になっていない。というのもこれは、意識とは像に擬えられるべきであり、かつ像とは意識の内でのみ息をしうるものだ、と述べているのだから。だが、むしろこの像の本質から意識というもののあり方が逆照射されるべきなのではないか。

「或るものを何かとして捉える」というのが解釈と意味の根本定式である。しかし今、その「或るもの」があらかじめ自然的に欠けており、「として」だけが独立して与えられるものがあるとしたとき、この定式はいったい何を意味するのか。

だからこの「XをAとして捉える」は意識の根本定式にはなりえないのだ。代わりにそれはただ「Aについての意識」とだけ言い表されている。この定式は、何をAとして捉えているのかについては何も語らない。(もちろん、この事実を、そのXもまたAから構成される、ということの証左として受け取る者もいる。その「として」捉えられた何かこそが最初に与えられており、そこから場合によっては構成されたりされなかったりするのが「或るもの」なのだ、と)


ウサギ-アヒルの反転図形を今、心の中で思い浮かべてみよ。最初にアヒルが思い浮かんだなら、それをウサギにしてみよ。さて君は、同じ絵を二通りの仕方で見た、と言えるか? それは個々別々に二つの絵を順次思い浮かべただけではないのか。すなわち、それが同じ図形であることを保ったまま、見え方だけが変化したと語ることができるか?

人はなぜ、アヒルがウサギになったとき、それが同じ絵の二つの見え方であると分かるのか(というのも、この二通りの見え方は何とまあ異なるものだろうか!)。それは例えば、紙上に定着した図形はすぐに風化したりはしないからだろう。あるいは、アスペクトの転換に加えて、図形が変形するのを見る、という別の知覚が伴わなかったからだろう。

想像におけるアスペクト転換。難しいのは見方を変えることではなく、それを同一の絵として保ち続けることの方である。そのときひとは、意識というキャンバス上の絵の具の布置が変わらないよう必死に注意する羽目になるだろう。だがその努力が正味のところやっているのは、意識の素材を固定することではなく、いわば、もとから固定された素材であるところの実在の紙について表象することなのである。表象の同一性は表象の対象から借りて来られる。

私はアヒルの絵を思い浮かべた。次にウサギの絵を思い浮かべた。なぜそれがアスペクトの反転だと言えるのか。それはただ、私がそれに加えて、「アヒルに見えたりウサギに見えたりする同じ画像」について想像していたからにすぎない。それは私が同じ図形だと思うがゆえに同じ図形である。私は自分が見るものを見る。

想像表象そのものはアスペクト転換をしない。想像はただ「アスペクト転換について」表象するだけである。変化において同一であるところの絵、その役割を想像表象そのものが果たすことはできない。その代わりに想像は同一物としての絵を表象する。意識に固有の素材を考えようとするとき、ひとはその素材の意味解釈から独立したあり方を、構成された──と見なされている──実在の方から借りてこざるをえない。