想念とは何か
われわれ現代人がつねに手に持っている小さな光る板、諸悪の根源。動画が流れていればその動画に、文字情報ならその情報世界の中に、われわれを虜にする電子小板……
よく見てみれば、それはただのガラス板にすぎない。キャラクターだってドットの集合体じゃないか。そしてそれを見ていたのは私だ。暗い部屋の中にぐったりと横になって、多分、バックライトで顔が青白く照らされているだろう。「我に返る」とはよく言ったものだ。だがそのことにふと気づいてはふたたび電子の海に溺れていく、今度はもっと深く。
ところでこのガラス板はわれわれの脳みその中にも埋め込まれていて、そいつに延々と想念を見せ続けられている。そしてそれを見ないことはできない、スマホ断ちはできても。「意識」というのだが……
話を難しくするために、感覚と、それから知覚を、糾弾の対象から外そう。こいつらは無害だ。感覚は分かるだろう。スマホなんて見ずに──自分はその状態を「手放しで」と呼んでいる──銭湯にでも行ってお湯の熱い冷たいに触れたり、食事をするためだけに食事をできるときはいい。ところで知覚もいい。いつも通っている道に大きな駐輪場があるとは気づかなかった、とか、もうこんなに爪が伸びている、とか。音楽もよい、手放しでなければ聴けやしないから。
だが音楽を聴くとき上の空で聴いている人は多いのではないか。流し聴きでなくても、いま鳴っている音から集中が頻繁に逸れてしまうようなとき、自分は音楽を聴くのを諦めてしまう。この「上の空」の正体こそがあの脳内電子板なのだ。散歩をしようが風呂に入っていようがお構いなしのテレビ番組。ああ、誰か脳みそから取り出して叩き割ってくれ! それか、画面に映った情報を読み取る力を俺から奪って、そいつをただの光る板に戻してくれ!
この脳内電子板が見せるものたち、それを「想念」と呼ぼう。「想念」という言葉は、よいものである。それは思念することと想像することの間に本質的な区別を設けない。それに、想念には、画面に文字が映るか映像が映るか、といったようなはっきりした差異がそもそもない。
想像とはどれのことか。「あなたはふだんよく想像をするか」と聞かれれば、多くの人は否、と答えてしまうだろう。自分も子供の頃はよく空想をしたものなのだが、などといって。だが「あなたはふだん想念を垂れ流しているか」と聞かれれば、そうです、残念ながら、と皆が答えるだろう。何のことはない、想像とはそれのことである。
ある人物の顔を心の中に思い浮かべる。あるいは、目の前にある机を見て、次に目を閉じてその机を思い浮かべる。こんなものが想像のモデルケースにされることが多い。すると想像は知覚によく似たものに思えてくる。偏った食餌。もっと自然に生えている想念を掴まえてきなさい。だがそれはなぜかとても難しい。画面に映ったものを指差すようにはいかない。
たいていの想像は対象を見ない。すなわち、知覚がその知覚対象である個物をもつように、想像が想像対象である個物(机とか人物とか)をもつことはあまりない。例えば三角形を一つ思い浮かべてみよ。ではそれは世界内のどこに書かれた三角形なのか? 想起された三角形なら確定された時点と場所が言えるのだが。
たいていの想像はもっと概念的である。例えばまとまった文章の構成を考えているとき。「第一節と第二節の議論の二つを、次に第三節でそれぞれ承けて展開させて、最終節では冒頭の伏線を回収しよう」。建築術的な構想の下、私は四角い箱4つが左から右へとラダーで繋がれていくようなイメージをもつ。この箱たちがそれぞれ、各節とその論点を代表しているわけだ。想像イメージとは本来、こういう四角い箱のようなもののことを言うのだ。
これは確かに直観的なイメージだ。だが、直観的であるとは知覚的であるとは限らない、ということがこのことから分かる。こうした想像に対応する知覚などありはしない。実際にそういう繋がり方の論文を書いて、それを読んだとしても、この「全体像」が頭に浮かぶわけではないからだ。全体像……カントの図式の問題。