placet experiri :: 29

想念の四角い箱

だがこの「四角い箱」という言い方には嘘がある。想像イメージは個物(particular)ではないからだ。

心の中に何かが湧き起こってくる。これは一体何だろうか、とじっくり観察してみる……このときひとが持っているのは感覚や気分だ。想念ではない。つまり、想念はほんらい観察できない。

これは何であるか、と言いながら、その「何であるか」から独立に掴む(特定する)ことができるような「これ」が個物である。性質規定からのこうした独立性が、観察と錯覚と訂正の可能性をもたらす。例えば、最初は喉元の熱さだと思いながら観察していた「あれ」が、後から「胸やけ」というものであったと明らかになる、といったようなことが。性質規定が書かれたカードを掛けておくフック。想像イメージにはそういう独立性がない。つまり、述語のラベルの取り替え作業中も同じものであり続けてくれるような、そちら側で成り立っている実体的同一性がない。

この観点からすれば、知覚対象だけでなく知覚現出もまた個物である。このものは何であるか、と問う代わりに、この見えは何であるか(何の見えであるか)と問うこともでき、それの意味を後から見替えることもできるからだ。こうした独立性の有無はおそらく、外的触発と自己触発を分かつ分水嶺になっている。だから感覚も心の外にあるものなのだ。


「イメージは個物ではない? それは当然のことだ、なぜならイメージはあくまで代理物(アナロゴン)なのだから。われわれはイメージそのものを対象として目指すのではなく、それを介して(その代理物を中継地点にして)別のものを捉えるのだ」──そういうことなら、私はイメージをアナロゴンだとすら呼びたくない。

一週間の予定を、例えばホワイトボード上にマグネットを置きつつ考えるなら、そのマグネットは正しくアナロゴンだと言える。そして確かにマグネットにも想像イメージに似たところがある。この赤いマグネットに「日曜日」を代表させよう、などと取り決めて使い始めると、使っている間、そいつは日曜日そのものとして振る舞う。「それはただのマグネットじゃないか」などと言う人はいない、このごっこ遊びのルールを受け容れてくれさえすれば。

だが似ているのはそこまでだ。「心の中に四角い箱が現れてきた。ちょうど手近にあるので、この箱たちにそれぞれの曜日を代表させよう。今からそう取り決める」──こんなことは起こらない。むしろこの四角い箱は最初から「日曜日」として登場する。奇妙なことだが、私はその箱を見ただけでとにかくそう認識してしまうのだ。にもかかわらずそのことを指して私は、「私には日曜日が見える」と報告するのではなく、「日曜日について私が考えている」と語る。私がそう取り決めたわけでもないのに。

いや、そうでなければならない。われわれはいつでも或るものを何かとして捉えている(take X as A)。ところで知覚や感覚では先ず「或るもの」が与えられる。その個物を固定しておいてから、それの性質をあれこれ(熱さであるとか胸焼けであるとか)規定する。しかし想像では逆に、「何であるか」の側が固定されていて、そこから或るものを捉える。そのことが、その或るものを性質規定をもとに創っている、私がそのイメージを思い描いている、という能動性として感じられる──こういうカラクリになっているのだ。だからもし、イメージが最初は四角い箱として登場し、次に私が取り決めたのち「日曜日」として再登場する、という順序だったとしたら、その箱は、私が(日曜日として)理解するより前に私が(その箱を)思い描いたことになってしまい、「私が日曜日を思い描いた」ということにならない。だからこそ逆説的にも、見た瞬間に否応なくそれだと思い込んでしまう像、を見るのでなければイメージの能動性は生じないのだ。

だから、知覚は「XをAとして捉える」という関係づける反省的判断だと言えるのに対して、想像はただ「AであるXを見る」という前反省的段階にとどまる。私がするのは、私の志向(Aである)があらかじめ描き込まれていた像を見せられて、それを即座に認識することだけだ。そしてイメージはこの前反省的段階に留まり続ける。たとえ反省のまなざしを振り向けようとも、そのXが見えるようにはならない。それゆえ、想念の仕組みやその内部構造を分析する方法がない。だからイメージは心の中にあるスクリーンではないのだ。

絵画を単なる絵の具の池として見るように、心像の素材を掴まえてじっくり見ようとすると、ひとは困惑に陥る。掴まえたはずの心像のキャンバスは、すぐさま両手からすり抜けてしまうように思える。心像はとても脆く移ろいやすく、生み出されては素早く消え去ってしまうように思える。

しかしその理由は、心像は砂場に描いた絵のように時間の中で風化するから、ではない。一言で言えば、心の中は世界の中ではないからだ。ゆえに、心的なものには持続というものを問題にする余地がないから。より正確には、心の中にあっては持続それ自体も意味的に構成されざるをえず(例:さっきからずっと同じ場面のことを思い浮かべている)、それの同一性が意味の外側で実体的に保証されてはいないからだ。

それでもなお心像を「像」と呼び、意識をスクリーンに擬えるとするなら、それは透明な像、まなざしがつねにその向こう側へとすり抜けて、対象(人物、節立て、曜日)そのものが見えてしまう像である。あるいは、その像自身がその当の対象に変化して、それが代理するだけであるはずの当のものに成りきってしまう像である。なぜそんなものが像だと呼べるのか。

「見る」ことと「想う」こととはまったく異なる二つの働きである。見ることは特定の個物に触れることであるのに対して、想いは概念的に、不特定な内容の周りを漂うことである(だから想念はよく「言語的」だと形容される)。そして、見ることに関して何かを想うことはできるが、しかし、想いや想われたものを見ることはできない。そうするためには想いはまずもって個物化されねばならないからだ。ところであらかじめ個物化された形態の想いというものが世界の中に存在し、それが「像」と呼ばれているものなのである。

だから意識は像ではない。知覚的意識は言うまでもなく──世界の中に存在しないだけでなく「想う」ものですらないから──想念という真正の志向的意識についてすら、なぜそれを「表象」と呼べるのかが分からない。