何がしたいの?
小学校の頃の学習塾の友達の口癖だった。困った顔でそう言って、ふざけてばかりの仲間に楽しそうにツッコミを入れていた。今ではそれが自分が独り言を言うときの口癖になっている。今度は自分に向かって、本気で困惑しながら、半ば叱責するように。「ねえ、何がしたいの?」
自分が何を欲しているのか分からない。一体どこに行こうとしているのか、それが理解できない。判じ絵を解くように自分の欲求を解いている。知性を総動員して。そうして、答えだと思ったものにべっとりと貼り付いた疑念をいつまでも引きずりながら行動に移す。
自分が何を考えているか分からない、ということなら起こりえない。私がそうやって考えている限り、「何を考えているのか分からない」と考えていることは疑いえないからだ。力の限り欺くがよい。だがこの自己知の明証性が欲求や感情に届かない。自分が何を欲していると自分は思っているか、なら明晰判明に分かる。すなわち「何をしたいか分からない」と思っていることが。で、それが何の役に立つ?
他人が何をしたいかなら分かる、彼の行動を見れば。他人の心は直接覗けないので、そのブラックボックスの中に、自分が知らないものの確定はしているような一つの答えの存在を措定することができる。ときに解釈が複数分かれるだけで、その中の一つが答えであることならもう分かっている。正解は実はありませんでした、なんてどんでん返しも許されていない。だからこそそれは「行為」であって身体運動ではないのだ。
自分の心はくまなく覗ける。そのことが、この判じ絵の隠された「本当の」意味を想定する奥行きを奪い、その答え合わせを無限に延期している。だからいつも自問している。自分は本当はこうしたいのではないか、などと思うたびに。「だが、ここにおいて『本当は』とは何を意味するのか? お前が決めたものなら何であれ、それが本当なのではないのか」
何をすべきか、なら分かる。分かりすぎるほど。このあたりで胃に食物を入れておかなければならない、なぜならいつもそうやって空腹で動けなくなるから。そろそろ寝るべき時間だ、なぜなら……理性、合理性。実際の行動に直結しない理由たち。
理性の命令はむしろ否定形で表現するのがいい。「「空っぽの胃のままで動き続けない方がいい」」──分かった、分かった、何か食べよう。で、何を食べればいいのか。数ある食べ物の中からどれを。
理性はここでも雄弁だ。ただ欲求に従って決めれば良いときにすら。「今日も油物は避けるべきだ」「かといって寿司はいけない、なぜなら昨日食べたからだ」。昨日と同じものは食べたくない、ではなく。やがて計算機が一つの完璧な答えを弾き出す。「さあ、これを買って帰りなさい。お前がそうすべき理由も条件も全て揃えた。あとはお前がただ首を縦に振りさえすれば良いのだ」……欲求は何も答えない。ただ啞のように黙りこくっている。
最後は理性が押し切って、駄々をこねる──というよりハンストをしている──子供を引きずって帰る。しかしこの勝利はいつまでも喉に刺さった小骨のように、私は本当にそれが欲しかったのか、それは本当に欲求だったか、という疑念を理性に残す。そこに他人のことなら分かると高を括っている他人が群がってきて、「この行為をしたということはつまり、そうしたいという欲求を持っていたからなのですね」と言う。どうかそんなに簡単に決めないでくれ。私がいま、自分自身を自分に正当化し終わるまでは。
自分が何をしたくないかもはっきりと分かる。だから、そうすることを結局のところ選んだということはつまり、そうするのに吝かではなかった、ということだろう。もちろん、したくないことをいま逆さにしてもしたいことは出てこない。否定的欲求は理性と結託して終わりのない消去法を押し付けてくるだけだ。
ところで「食欲がない」というのは実ところ、食不快感がある、という方が実情に近い。例えば医者で「食欲はあります」と言うときには、食べることの阻害要因の存否を自分の体に問い合わせてから、それの不在を報告するだろう。逆にモリモリ湧いてくるという食欲は真正の欲求、いや欲望だろう。充足された食欲にはきっと意味の味もする。
いま感じている気分が次の瞬間にはすっかり雲散霧消しているとしても、私は今その気分であるという事実は動かない。だが、いま感じている欲求が一瞬後には、あるいはその対象から遠かった後には消えてしまう欲求であるとしたらどうか。そして、その心変わりがいま朧げながら予感されているとしたら。その空っぽの未来は現在へと侵食して、兆しかけた欲求を飲み込んでしまうだろう。この事実は動いてしまう。自分の心情の動かぬ証拠を掴もうとしては失敗している。