placet experiri :: 31

育自放棄 他者の欲望

「自分が何をしたいのか分からない」ということがそもそも可能であるために、欲求とはいかなるものでなければならないか。答えだけなら知っている。それは物語でなければならない。「なぜなら」の織糸で編まれた一遍の自己物語。欲求を持つとは作話することでなければならない。そしてその物語から醒めないことでなければならない。

物語には意味を備給して育て続ける必要がある。水やりを怠ると枯れてしまうので。

ネグレクトの例:どうしようもなく憂鬱な気分を、何か特定のものへと向けるのを拒むこと。その憂鬱を、自分が恵まれない境遇にいることへの不満感として捉えてやるとか、そういう工夫を怠って。現実全体を覆うこの漠然とした欠乏感を、何か特定のものの欠如へと局限することなく、そのまま放ったらかしておくこと。それさえ満たされれば全てがよくなるような何かの存在を、救済の可能性を信じないで。

そして、その気分の生起に接してつれない態度をとること。「はいはい、また始まったよ、いつものが。水分とブドウ糖をとって部屋を換気して体を温めて光を遮断しておけばいいのだろう」。とうてい人間扱いとは言えない。唯物論的な物語を持ち出して、他のあらゆる物語を殺して、最後にそれも捨てる。後には何にも紐づけられない気分が残る。さらにどうしようもなくなった憂鬱が。理由のない幸福が。

それは世界に把手をつけることだった。そこにしがみついて、力を込めて動かせば覆いが取れるだろう、という作用点を。実は引っ張っても把手が外れるだけだとか、けっきょく別の場所に皺が寄って、欲望から欲望へとたらい回しにされるだけなんだとか、そんなことは今は忘れて。


買ったばかりのおもちゃについている、乾電池と端子を隔てる絶縁紙。取り去ると接点が生じて車輪が動き出す。その薄紙が挟まっている。感情の素と、そこから実際に感情を持つことの間に。

ただ単に悶々とするのと、満たされない何かがあることに悶々とするのは全く別のことではないのか。この差異を無視して後者の「感情」をじかに持つことが、すでにして大きな決断であるように、いや、単なる断定であるように感じる。

それは行動の決断と何ら変わりはない。感情の解釈は単なる観想ではない。ラベルを貼った瞬間に世界の中に移動している。自分は物語の中に登場している。その登場人物は満たされないと想定されたその何かをすでに探し求めてしまっている。感情を解釈するのは世界の中で行為するのと同じことだ。物語はもうその終着まで書き終わっているのだから。

実際に世界の中で決意する遥か手前でつまずいている


感情の素とは気分のことである。気分はヒュレー(フッサール)だと言われる。もっと言えば、気分は物理的現象(ブレンターノ)である。なぜ彼らはこの真理を知っていたのだろう!

心の中にあって他人には感じられないにもかかわらず、気分は心的現象ではなく物理的現象として、痛みと同じカテゴリーに括られて心の外に追い出される。それが私秘的であることは彼らにとっては正しくどうでもいいことだった。気分が非志向的である(特定の対象に向けられていない)のは自明にすぎる。だがそれは物理的現象でもある。つまり、気分には実体があり、個物であって、心の中で客観性を持つのだ。それは心の中にしかないのに心にとっての異物である。だから気分には不意に「襲われる」ことができる。自分の感情にも襲われることができたらこの生ももっと劇的になったのに。

気分のことなら医者の方がよく知っている。自分の気分は医学書に書いてある。感情は……小説によく書いてある。小説から引かれた感情を小説が説明するから。


カントにおける自己意識と自己認識の差異。「私は考える」の単なる自己意識を超えて、一個の具体的な自己についての認識を持つためには、私は自己を時間の内に存在するものとして捉えるのでなければならない。「私はあった、私はあるだろう、そのようなものとして現在もある」と。このとき自我は一つの超越をなす。

「……だから、呼吸や想念のように今ここにあるものとして自分の欲求を見ようとする者は、欲求というものの文法を誤解しているのである。時間的脈絡の内にあるものを今ここにおいて見ることはできない。『私がその欲求を持つに至ったきっかけはこうでした。それは将来このようになったときに実現されるもので、だからいま私は現在このような努力をしています』。これが欲求というものだ。自己の心的体験を直接識ることができる、というのはそれゆえ悪しきデカルト主義でなければならない。心とは世界から孤立した閉じた領域なのではなく、むしろ心もまた世界の内に存在するのです」

……うるさいなあ。同じことばかり、そんなことは分かってるんだ。だからそんなものは理解できないと言ってるんだ。

私は本当は何に困っているのか。何がそんなに嬉しかったのか。自己の真理を知りたいと願っていた。そういう把手を世界の中に見つけようとしていた。実際にやらねばならなかったのは、この苦しみからその「何」を作り出すことでしかなかった。

自分によって発見されるのを待っていた自己の真理、その考古学。それは実際には、穴の中で採掘品を工作して持ち帰ることだった。何が「発掘」されようとあらかじめ虚しかった。自分が作っていることを自分に隠すために、なるべく拾ったものだけを材料に選んで、創作の手順を自身に難読化してみても。精神分析家にはなれそうもない。

自分では知ることができないから、自分ではただそれを作っていることになってしまうから、誰かに教えて欲しいと思う。他者の欲望しか欲望できないから。でも、もし誰かの口から語られたなら、それを信じたくはないな。