内観と自己物語
「内観についての本」がホテルの部屋に置いてある。瞑想や呼吸法の本かと思って読んでみると、「自分の過去の人生を振り返って、関わってきた人々を思い起こして」とある。それは外観じゃないのか?
間違っていたのは自分だった。それは自分の内であるべきだったし、自己というのは来歴をもって歴史的に存在しているべきものだった。
アレキシサイミア(無感情症)は内観能力の欠如によってもたらされるという。畏れながら、内観能力なら足りていますが。
いや、足りないのはむしろ、あの自己啓発本が説いていた意味での「内観」ではないだろうか。自分の思考や気分をくまなくはっきりと観ていくことができる者が、まさにその能力のゆえに失うような特殊な内観能力があるのだろう。それは、世界の中に自己の「内」を見出し、それを観ることが自己を観ることであるような何かを外に構築していく力だ。そして、それを決して外観だと感じない力。
なるほど、と自分でも時々やってみる。「自分は単に憂鬱なのではなくて、本当は寂しさを感じているのではないか」……ここ最近で一番笑った。あまりの滑稽さに。それが決定的に手遅れであることに。
「これは本当は〇〇という感情なのではないか」だと? 遅すぎる! 今から物語を編み始めても間に合いやしない。だってこれだと文字通りの意味で作話していることになってしまうではないか。人は自分が作った物語を自分で信じることなどできない。どんな生存上の必要から作られたのか、どこを誤魔化してどこを針小棒大に捉えたのか、全て内側から分かってしまうから。
逆もまた然り。すでに生じてしまった感情を解体する、ということもできない。「違う、これはただの生理的欲求の色付けなんだ、精神病の一種なんだ」と言い聞かせてみても解体には至らない。実はこの葛藤もまた筋書きの中にあらかじめ書き込まれていることに気づかない。そのことに気づいて自嘲してみても、その台詞もまた絡め取られて響かずに消える。こうなったら瞑想は効かない。
感情を消す薬は作れない、気分を消す薬は作れるが。対して、記憶を消せば感情も消える。だが、頭痛を消したいのに記憶を消すのは馬鹿げている。精神的な痛みしか消えないのに。
多くの人はそれで気分も消えると思っているらしい。だが、リセットされたら同じ漠然とした不安感とともにリスタートするかもしれない。ここには心身問題がある。世界の手前で立てられた心身問題が。
最初から壊れた感情が湧いてきたときにだけ瞑想ができる。それの意味づけられ方も、その素材が単なる気分にすぎないことも、その両方が見える。
生の気分にいくつかのサジェストがぶら下がっている。「もしかして:現状への不満」。鼻で笑って脇によける。不満、寂しさ、未来への心配……どれも的外れではなく、どれも候補にすぎない。中立性変様というやつだ。引用符付きの怒り、ふりだと見え見えの喜び。括弧付きの欲求を満たしても括弧付きの充足しか得られないのが分かる。だから何もしない。
しかしこの場合にも、素になっている気分が中立化されている必要はなく、むしろ気分はどっしりとあってよい。いや、むしろ気分は中立変様されない! あたかも不安であるかのような、しかし実はそうでない気分などというものはない。それは痛みの中立変様がないのと同じことだ。
この実体としてどっしりとある気分の存在に気づくことによって、逆説的に、これ以外のものにはじつは実体がないこと、それはただ意味存在でしかないことが分かる。決して無化しえないものの存在から、その無化しえなさが単に経験的なそれでしかないものの存在に気づく。どこまでが実在でどこからが物語なのか、どこまでが生活でどこからが人生なのか、その境界線が見えるようになると、もう最初から壊れた感情が湧いてくる。あとは各自ミシン目に沿って切り離すだけだ。こうやって人は後天的に身につけた能力を後天的に捨てて、名実ともに欠陥動物になる。
冗談で言った はずの僕が
今は目も逸らさなくなって
馬鹿にしてきた あいつの文句も
今はどうでもいいんだからさ
── 会心劇 - Eve
自分が本当にしたいことを、冗談の形をとって言ってみる、ということがありうる。あくまで冗談なんだから、目くじらを立てたり粗探しをしたりしないで聞いてくれよ、と前置きして。
フロイトの「否定」の話に似ている。患者が「否」と頑なに認めようとしないこと、それこそが、彼がまさにそれであるところものである、という話。
我々は普段ここまで深い自己欺瞞に陥ることはない。その代わり、それができない現実的な条件を引き合いに出して掻き消している。欲求が湧くたび消しているというより、そもそも湧いてこなくなって、自分にも分からなくなる。
自己の真実を長い迂回路を経て知る、ということがある。冗談、がその迂回路だというのはどうかな。綺麗すぎる話だろうか。だが、このお話だけは信じてみたいと思う。