普遍者とその例外
自分自身で一つのことに根本から関心をもち、従って、その話をすることによってほとんど必然的に他人をその関心に引き入れ、他人に伝染させて、いままでは全然存在せず、予感さえしなかった関心を作り出す──これは、すでに存在する関心を充たすよりはるかにやりがいのある仕事である、というのだった。(『ファウスト博士』上: 91, XIII)
誘惑とは、何をすることか。騙すこと、たぶらかすことか。そうではない。キルケゴールに言わせれば、それは、相手に情熱を感染させること、みずからの情熱によって相手の中にも情熱の火を点すことだ。(藤野寛『キルケゴール──美と倫理のはざまに立つ哲学』115頁)
少し前まで、こんなことは論じる価値もないほど重要なことだった。このことを理解せず、その力を少しも持たない人間を軽蔑すらしていた。
今では、なぜそんな罪深いことが許されると思っていたのかが理解できない。そんなことをして自分も無傷でいられると思っていた、痛々しいほどの鈍感さが。混同が。
今では、自分がアテナイにいたとしても、迷わずソクラテスを死刑にしただろうと思う。強論を弱弁したかどで。加えて自分がソクラテスだったなら、やはり進んで毒杯を飲んだだろうと思う。舌が痺れて呂律が回らなくなるように。もうこれ以上話さずにいられるように。
できればその毒、お前たちが拵えて用意してくれないか。一滴飲めば喉はカラカラ、一口飲めばもう何も自力で考えられなくなるような、最低の毒杯を私に。
なるほど凡夫だ、まるで分かっちゃいない、師というものを。師はもはや、弟子にはいつか自分を殺して高みに至ってほしい、なんて甘えたことを望まない。望まないから師になったのだ、仕方なく。自分が跪いて傅いていられる上位者をすべて失っても、自分の誤りに自分しか気づけなくなっても、黙って前に進む。
師が授ける言葉に、弟子は勝手に傷ついたり勝手に救われたりして、それでも師は気分を害したりはしない。どちらにせよ弟子は自分のことしか見えていないで、だから何一つ報い返さないとしても、師はとりたてて失望することもない。
授けた知恵を両手に持ちきれないほど抱えて帰ろうとする弟子に、師は一瞬だけ眠そうな、あるいは物憂げな表情を向けた。自重で潰れて腐っていくのが視えたのだ。しかしほどなくいつもの微笑を貼り付ける。反応のなくなった弟子を一生飼い殺しにしておく度量もあるから。その微笑が誰にも剥がせない。
師弟関係なるものは存在しない。だいたいそれは弟子の語彙だ。弟子は一方的に関係を夢想する、師はこれまた一方的に与えるだけ与える。しかし師はいつでも上の空。
師は弟子の心の訴えを聞いても、「弱さは誰にでもあります」とか、そういう普遍的なことしか言わない。その理解をお示しになってくれてもいいのに、私にだけ、優しい言葉の一つ位は掛けてくれてもよさそうなのに。師は弟子を褒めるときにもお世辞と見分けがつかない。
師は自分の考えを滅多に述べない。師はいつでも黙って自らを差し出す──私は貴方の写し鏡となりましょう、もし私が誤解されるなら、その誤解もまた貴方自身なのです──口を開けば引用と譬え話ばかり。
師はごくまれに弟子に直接働きかけるが、その真意は隠されている。その働きかけは弟子にとってたいへん厳しいものであり、ゆえに試練と呼ばれる。弟子は必ず師の真意につまずく、つまずくから弟子をやっている。それでも師が弟子を助けるところを見た者は誰もいない。それでこれまで何人も殺めてきた。
師の行動は矛盾している。自分の似姿を作るまいと躍起になっている、師のくせに。体は勝手に辞める理由ばかり探している。寝言でも祈りを捧げている。
積極性のある者は誰であれ歓迎される、それが師のいわば習性である。弟子からの勇気ある贈り物に、師はそれが欲しかったわけでもないのに、ほんのひととき、頬を赤く染めた。そのとき師は、自分がなにかある能力を失ったことには気づかない。気づかないのに、気づいてほしいから師をやっている。