placet experiri :: 36

血まみれのハッピーエンド

『ひぐらしのなく頃に』の古手梨花というキャラクターのことを考えていた。彼女は無数の可能世界を記憶を保ったままループして、彼女自身とその友人たちの皆殺し、その同じ映像を延々と見せられている。映像といっても、彼女もその世界の中に登場して、その運命を変えようと毎回違うことを試してみるわけだが、最後にはいつも同じ結末になる。なのでいつも半ば諦めて観察者を決め込んでいる。もちろん、何も変えようとせず放っておくと同じ映像が延々と流れる。(彼女は別に何かのバチが当たっているわけではない。理由なんかあったら逆に可哀想だろう?)

この舞台装置に関して一つ、引っかかっていた点があった。よくあるパラレルワールドものなら、死んだらそのまま直接別の世界に移動して、その中で目が覚めるのが常だろう。それは夢の比喩形象だと言える。夢とは本質的に、心理学的でも単に超越論的でもない、形而上学的な範疇に属するものだからだ。あるいは、そのようなSF的舞台設定の方こそが、夢というこの特異な経験的実例からその理解可能性を備給されている、と言ってもよいだろうが。

しかし『ひぐらし』では、一つの世界が幕を閉じると、それぞれのミニチュアの世界たち(=カケラ)が散らばっている小宇宙のような場所にいったん戻ってくる。「カケラ宇宙」とでも呼ぼうか。恐怖と激痛とともに絶命したときにはもういつもの小宇宙にいて、その絶叫もこっちで響き渡る。さっきまでいた世界はすでにカケラとして向こうに散らばっていて、あのとき何が悪くて何が足りなかったのか、世界の外側でまた考える。このワンクッションを経てふたたび、浮かんでいるカケラたちから一つを選んでその中に入ってゆき、そこで初めて次の雛見沢が始まるのだ。なぜこのような迂回路を経るのだろう?

それはたぶん、これが想像の比喩形象だからではないか。これが夢(夢は知覚の一種だ)なら、諸々の夢たちを通覧できる超越的視点などありはしないはずだから。それに、想像は知覚とは違って、想像されたもの(惨劇)と、想像作用(それをカケラ宇宙にいる梨花が想像すること)との間には或るギャップが存在する。そしてそのギャップもまた実は、心理学的なものでも現象学的なもの(いわゆる意識作用と意識対象の差異)でも決してない、と私は言いたい。意識現象の記述で尽くされそうに見えたこの想像の問題にすら、或る気づかれがたい形而上学の問題が潜んでいる。ゆえにその懸隔は世界と世界との差異にも匹敵するものであり──そして通覧する宇宙は理論的架構物ではなく、確かにここに、あらゆる世界の手前と言えない手前に存在するのだ。


しかし、だとすればなぜ梨花はあんなにも苦しまなければならないのだろうか。夢ならうなされるのも分かる、だって現実に──夢の中の現実で──はらわたを引き摺り出されているのだから。常識的にも想像は(一見似ているだけで)夢とは別物だと思われている。夢が限界づけのない別の世界全体を開くのに対して、想像はこの現実世界の中にその部分として束の間浮かぶ雲のようなもので、それはミニチュアの世界にすぎないか、あるいはそもそも世界とは呼べない世界未満のもの(辞書の挿絵のようなもの)だ、と。だから、もし梨花の苦しみが想像的な苦しみなのだとすれば、それはサルトルが分裂病患者の幻覚を揶揄して言うように、実は自分が本当は苦しくも何ともないことを知っているはずだ、と。

たぶん違うのだろうと思う。サルトルは、ひとは、本当に真剣に想像をしたことがあるのだろうか。想像はときに最悪の苦しみをもたらす、追憶がときに最も甘美なものをもたらすのと逆に。それに、自らの観察と予視によってこそ最も苦しめられる、それでこそ観察者というものではないだろうか。追憶がつねに後ろ方向に反復(=反芻)するのに対して、梨花の想像はつねに前方向へと反復される。そして夢想がいつも一通りの未来に収束するのと反対に、彼女はあらゆる出来事のうちに分岐点を見て取り、可能な歴史すべてを考え尽くし、その終着まで早回しで全部見ようとする。また失敗して、失敗のパターンに法則性(=ルールXYZ)を見出し、そこから新しい分岐を見つけたと思ったときにはもう、時計の長針に手をかけて物凄い早さでグルグルと回している──回す自分も目眩がするほど。

何を選んでも、どの分岐を辿っても、胸の悪くなるような地獄だった。どの世界ものっぺりなんかしていなかった、すべての世界が等しく奥行きをもっていた。どの世界の友人たちもほんとうに生きていた。どの世界の中でも彼らの世界の苦しみが、苛立ちが、絶望が手に取るように伝わってきた。見てきた世界の数だけ、そのたびごとにただ一人の友人たちを喪った。

「彼らが苦しむ姿なんか見たいわけじゃなかった。ここの分岐を変えるとどういう結末が待っているか、なんてあらかじめ知っていて想像しているわけでもなかった。知っていたらわざわざ想像なんかしないもの。それぞれのカケラは物の世界でも私の意志でもなかった。だから私の思い通りに進まない世界が目を痛めるほどの近みにあった。そう、それは全体として、彼らを生き延びさせたいがためのやむを得ない思考実験でした。突き動かされるように私は考え続けました。そして、それぞれの選択の結末が破滅をもたらすことを、私がそれを想うだけでも深く傷つくとしても、それを正視することを私は欲しました」

「私はこのチェスゲームの素人です。定石の知識や経験則(こういう場合は「絶対」こうなるという知)も、あいにく一切持ち合わせていませんでした。だから私はその最善手を無から生み出すために或る犠牲を払いました。つまり私は、この目下の盤面を読み切るために、相手の読めもしない指し手の意図を読むのではなく……その先の実際の指し手を、どんな些細な可能性も切り捨てることなく千通り考えることで、強引に読み切りました。つまり、あのときの一手がどういう意図を持っていたか、という盤面外のもの(これは読みの幅を狭めてくれます)を考えることができないで、代わりに、この先の三手がどういう駒の動きになるか、それだけを愚直に考え続けました。もし相手が自然現象なら、風でビショップが倒れただけでしょう。初めから私に勝ち目はありません。ですが相手が人間なら、あの不自然な一手の底には確かな強い意志を読み取るべきなら、私はきっと最後には、その企みを全部暴いて答えに辿り着いてみせます。だから私は、私の方の持ち時間だけ無限にしてもらいました。それだけは私が望んだことです。だってこれは夢ではなく、私の想像なのですから」

そういう種類の人間が確かに存在する。探索範囲を無限に広げて、それどころか全ての世界と自分をチューブで繋げて、知恵も毒水も全部吸い上げてしまう人間が。ひとが追憶と夢想の眠りに耽っているとき、ひとり早回しでその諸結末まで見終わっている、白夜のような生が。


全ての惨劇は想像的なものだった──ということはつまり、梨花は最後の世界でただ一度だけ行為したのだ。全てを予見して、それで(「祭囃し編」の)惨劇のない世界を作り出した。全ては最初からこの現実世界で起きたことだった、梨花の想像を含めて。想像することそれ自体は現実の中で起こるからだ(夢の世界を知覚する作用がそれ自体夢の中にあるのと反対に)。

現実世界が一手進むと、その内に彼女は百通りの結末をすみやかに観て取り、息せき切って一手返す。また世界が一手を指す。……残酷な指し手だ。しかし彼女はそれに応じた百の走馬灯をもう見終わっていて、這いつくばりながら会心の一手を指す。このようにして全ては観察者によって予視され、かつ行為者によってあらかじめ消し去られた可能的歴史だった。

だからあの物語の結末は決して単なる大団円ではない。ひとは、彼女たちが選びつつある一つ一つの最善手の裏に、それを選ばなかったことで喪われた無数の世界の存在をそのつど読み取らざるをえない。一つのハッピーエンドをそれとして認識するためだけに! 全ての惨劇はこの平穏な世界につけられた注釈として存在する。

だから今となってみれば、あんな悪い夢を見る必要など元からなかったのかもしれない。だってそんなことは現に一度も起こらなかったのだから。それは最初から彼女の気のせいだったのかもしれない、過ぎた深読みだったのかもしれない──そう、それでいい。まさにこのことを、そう思える日がいつか来ることを、その深読みの中の彼女が欲した。

もうハッピーエンドを馬鹿にしない。惨劇はもう要らない、どうせこれから何度も見なければならないなら。浮かれた喜劇的結末の、まさにその同じ時間的位置に無数の悲劇的結末の重ね合わせを見せることができるなら、そのときに限って、ハッピーエンドこそが最高の形式となりうる。