placet experiri :: 25

挿絵に対する態度

意識像アンケートの思考実験。ある人の意識経験の録画を人々に見せて、彼が見ているのが何であるかのアンケートをとる。このとき回答者は、実際の知覚をせずに、ただ知覚判断だけを担当すればよいことになる(我々はふだん知覚と知覚判断を同時に一人でこなさなければならず、だからその判断も「関心」と無関係というわけにはいかない)。

このアンケートの回答者には「映像に入り込んで見ないように」というお達しが出ている。映像に夢中になるな、映像の中に開けている世界の中に入り込んで、その内側から世界を見ることのないように、と。

例えば「彼が見ているこの猫は本当に存在すると思いますか、それとも当人の錯覚か幻覚だと思いますか」という設問に接して、「……いや、まだ情報が足りない。もっと近づいて見ないと」と言い、近づいて確かめてもなお「まだだ、次の瞬間には跡形もなく消えてしまうかもしれない」と言う──こういう態度が余計なのである。

それは世界に対する態度である。我々はフィクションを鑑賞するときにも同じ態度をとる。作中世界の内側から世界を見、来るべき次のシーンに固唾を飲み、ときに描かれていない背後にまで考察を巡らせる。そうしてひとは奥行きをもった世界の中へと迷い込む。

映像の中に世界を観るな。それを一枚の絵として、のっぺりとした挿絵として見よ。できないものはそのような訓練をするように。


逆の訓練を積んだ者を考えよう。我々が挿絵としてしか見ることのできないものの中に真正の世界を見てしまう者を。

辞書の“cat”の項目に載っている挿絵を指して「これは猫に見えるだけで、実はビニール袋なのではないか」と疑う者──「実は」とはどういうことなのか。それが何に見えるか、が全てではないのか。猫に見えたなら猫だと(ビニール袋ならそうと)決めつけてよいのだ。事象の意味だけが問題になる限り。

洋服を着て立っている人のイラストを見て「この人は後ろを振り返ったら何も着ていないのではないか」と疑う者──イラストには見えていない裏面はない。イラストは平面的である。ある事柄の一側面しか写さないという意味ではなく、事柄のすべてがその一枚に代表されているかのように描かれる、いう意味で。だから「前半分しか服を着ていない人」の絵には横から見た図が──それ自体はふたたびのっぺりと、そして疑問の余地なく──描かれるだろう。絵の意味がそこに描かれていないものによって決まることはない。対して我々は世界を、こうして見えている限りのものに尽くされはしないと信じる。

人が人をナイフで刺しているイラストを見て「さあ、犯人はこれからどうやって逃げるんだろう」と待ち構える者──「これから」とは? イラストというのは完結した一つの局面を切り取るものなのに、それの続編を待ち望むのはおかしい。そして、イラストの人物や事物の同一性を問題にすることはできない。画像の彼は「殺人者である」という規定以外の何の個性も持たずに、殺人者一般を一人で代表している。そして、もし別のページに手錠をかけられた人のイラストが載っていたとするなら、それは「逮捕」を表す全然別のイラストなのである。

同一性が問題にならないのは、そもそも時間が流れていないからだ。イラストは無時間的に読まれるべきものとして自らを与える。これは「動きがない」という意味ではない。例えば「ボールを投げる」という動作の挿絵を描くなら、投げる手の軌跡を描き込んでもよいし、そもそも挿絵自体が動く絵であってもよい。絵に視線を向けると絵が動き始めて、投げ始めから投げ終わりまでの一連の動作を映し出す。しかしこの出来事全体が過去になることは決してない。彼はいつ見ても現在ボールを投げているだろう。我々は永遠の相の下に挿絵を読む。(ただし、もし二つのイラストを縦に並べて右上にコマ番号を振ったならば、そのコマの間には時間が流れ始める。我々はナイフで刺す者と手錠をかけられる者の同一性を立てる。そうして意味は対象に、挿絵は物語になるだろう)

国語の教科書の、例えば「後ろめたい」という感情の説明に登場する人物。「太郎くんは花子さんにとっさに嘘をついてしまい、あとで後ろめたい気持ちになりました」。わざとらしい名前、薄っぺらいモデルケース。しかしこの“太郎くん”に深く共感し、この教科書の例に感情移入する者──

とはいえひとは同じことを小説を読むときにはしているのである。ひとは作中世界に入り込み、そのうちで生きる(hineinleben)。しかし教科書の登場人物をそう見はしない。挿絵の中に世界は開けていない。例文の中に没入することはできない。それはただ奥行きをもたず、ただ表面的に提示されている。我々はその意味だけを読み取る。

同じことを実際の人物に対して感じることがないだろうか。あまりに紋切り型の発言、散々見たことがある気がする行動パターン。彼は教科書の中から出てきた“太郎くん”なのではないか? 挿絵のように見られた、奥行きをもたない人物。

ここでは表出説だけが正しい。私も彼自身も、彼が怒っていることを彼自身の振る舞いだけから知る。このことは、彼が本当は怒っていないのではないか、という疑いをもつ意欲をもあらかじめ削ぐ。内面のない彼はいつでも“本気”である。

懐疑論者はそのじつ世界の奥行きをとても大事にしている。だがそんなものこそ本当は存在しないのではないか? 見たまま見た通りにのっぺりと世界は存在している。