placet experiri :: 39

透察と図星

本当は、酔ってなどいなかったんだろう、アルキビアデス。酔っていたら、きみが話したことのすべての背後に隠された真の目的を、こんなにも見事に隠蔽する企てをできるはずがない。話の最後に、きみがつけ足しのように述べた言葉。これこそ、きみの真の目的だ。なのにきみは、それがすべての話の目的ではないかのように見せかけた。真の目的とは、ぼくとアガトンの仲を引き裂くことだ。すなわち、きみは、ぼくがきみ以外の誰も愛してはならず、アガトンはきみ以外の誰からも愛されてはならないと考えたわけだ。(プラトン『饗宴』222C-D, 中澤務訳)

ひとは自分の行為の目的を自分が一番よく知っているとは限らない。行為の目的には感覚や思考──実はこの二つの直接性はまったく種類が異なるのだが──に見られるような一人称権威はない。意図と目的の差異! ここには気分と感情の間にあるのと同じ差異がある。人間は自らの欲動を志向的に解釈しつつ生きる動物であるという事実こそが、行為の目的の認知に関して、行為者自身をこうした不利な立場に立たせるのだ。問題は初めから概念的な水準にあるからだ。行為者としての自己は最初からこの解釈ゲームの駒として存在し始めるのであり、ゆえにそれがもつ人間的欲求もまたあらかじめ他者の欲望として、このゲームのマス目に沿って収奪されていざるをえない。それゆえ、行為者がもつ、例えば自分の私的な日記を覗き見ることができるという手がかりの量の特権性も……それら諸行為を貫く整合的な繋がりを発見し、それどころかまだスポットライトを当てられていなかった行為の存在をも逆に予言するような、より強力な解釈枠組みのもつ特権性──しかし経験的特権性──と同じ水準にある。

細かく議論しておくと、行為者は確かに、自分の行為が意図的行為であるか、それとも単なる身体運動であるかを決める一人称権威なら持っている(cf. アンスコム『インテンション』§7-8)。どんなに賢い人間でも彼の手が単にビクンと動いたのかどうかは知らない、それは概念知の対象ではないからだ。だがそこから先はもう当人の直接知の届く範囲ではなくなっている。だからあらゆる人心の透察者は、当人の「自分は〇〇のつもりだった」という発言から、「なるほど、それには「つもり」性が合ったのですね(ならばそれはわたしの領分です)」という情報だけを受け取って捨てる。「別に何も、ただそうしたかっただけだ」(これも意図的行為の規準を満たす。cf. 『インテンション』§17)とか言うのを見ても別に嘘だと決めつけたりはしない、ただ本当に何も知らないのだなと思うだけ。「違う、これは違うんだ、これは本心なんかじゃなくて……」とか言っているのを見てもただニコニコしている。あら、わたしとは意見が合わないな、と思うだけ──ここにあるのは臆見ドクサの争いだけ。

自分がこの意図的行為をいったい何を目指して為したのか。また──その単なる一例として──自分はこの行為を本気でしたのか、それとも「ふり」のつもりだったのか。最良の場合には、自分一人が知っていて、他人は知らない。普通は、自分もその場にいる人も(同じ無権威の下で)知っている。そして最悪の場合、他人だけが知っていて、自分は知らない。


自分の行為の目的を知らないとはどういうことか。例を挙げよう。タクシーを止めようと右手を挙げる、この意図的行為の目的は……やめ、やめ。例が悪い。こんな、理論の方をあらかじめ前提にしておいて、そこから作られたような例を考察したって意味はないんだ。

話すという行為を例にとればいい。この話の意図は何か?──「はい、こういうことが伝えたくて、この語はこの意味で使っていて……」──よろしい、ではこの話それ自体の意図は? つまり、貴方はなぜそれを話した?──一瞬、答えに詰まるだろう。この一瞬の沈黙のうちに全てがある。言表における構造的無意識(デリダ)と呼べるものがある。その沈黙のすぐ後にすぐに言葉を継げるか、あるいは一生言葉が出てこないかはどちらでもいい。「……ああ、そうだ、そうそう、こうするためでした。うるさいな、あなたに教えてもらわなくたって分かります」とか言ってももう遅い。その隙間にはもう悪魔が片足を突っ込んであるので。「それを口に出して言わなければ気が済まないということが、それが事実であるということ以上に意味するものとは何ですか?」

行為の直接的意図は必ず透明に知られているのでなければならないが、その意図のそのまた意図(意図の意図の意図……もひっくるめてこう呼ぶ、一階と二階以上だけ分ければいいだろ?)を「目的」とか呼んでおくと、行為者は自分の行為の目的まですぐに言えるとは限らない。にもかかわらずそれを聞かれたらすぐに答えられるような人間、これを「演技者」と定義することができる。この定義には「自分の本心を偽る」という余計な意味は含まれていない(だいたい隠すべき本心がある演技者は三流だ。韜晦する演技者は二流)。その逆、他人の行為の意図のそのまた意図を言い当てることができる人間、これを「透察者」と呼ぶことができる。透察者はもちろん、当人が気づいていない行為の目的であろうと無差別に透視する。

そして、自分の意図的行為の目的を知らないこと、これを「自己欺瞞」と呼ぶことができる。それは自分を騙しているとは限らない。自己欺瞞とはつまり、自分の真に欲するところのものが自己自身に対して透明でない、ということである。残り一通り、相手の行為の目的に気づかないのはまあ、「鈍感」ということかな。ほら、よくライトノベルで「鈍感系主人公」とかいるじゃないか、それのことだ。

これで一通り揃っただろう。[自分/他人]の行為の目的を[知っている/知らない]、で2×2=4通りだ。その組み合わせは以下の通り(演技が守備技術だというのは面白いと思いませんか)。

攻撃守備
鈍感自己欺瞞
鈍感演技
透察自己欺瞞
透察演技

ところが、そこに幾人かの律法学者がすわっていて、心の中で論じた。「この人は、なぜあんなことを言うのか。それは神をけがすことだ。神ひとりのほかに、だれが罪をゆるすことができるか」。イエスは、彼らが内心このように論じているのを、自分の心ですぐ見ぬいて言われた。「なぜ、あなたがたは心の中でそんなことを論じているのか。中風の者に、あなたの罪はゆるされた、と言うのと、起きよ、床を取りあげて歩け、と言うのと、どちらがたやすいか」(マルコによる福音書 2: 6-9, 口語訳)

透察者はもちろん、当人が気づいていない行為の目的であろうと無差別に透視する。とはいえ透察者は──精神分析家がしばしばそうしていると見なされてきたように──行為の背後に何でも想定していいわけではない。当人の諸行為を最もよく合理化するような一つの目的を洞察し、それが当人の自己解釈(ないし無解釈)よりもはるかに説得的であるとき、それが透察と呼ばれる。その徴は、透察者が自己欺瞞者の「図星を突く」という点に現れている(これが奇蹟と呼ばれてきた)。自己欺瞞者はすぐにその透察の正しさを悟る、しかし同時に必ずそのことを否認する、なぜなら自己欺瞞者だから。通常、否認は三度では済まない。

自分を騙そうとして騙すことはできない(大体、そうしようとしている奴はもう立派な演技者だ)。自己欺瞞とは自己自身に対する鈍感である。感情に、意味の過剰に苦しんでいるくせに──それを薬で、太ももをつねって、誤魔化そうとする。直視しようともがく思考を瞑想とやらでせき止めて。これは気分だ、気分にすぎないなどと言い張ろうとする。それがそれ自体一つの感情論であることも知らずに。自分の頭痛の無意味にいちいち外界の要因を探さなければ気が済まない手合いの逆だ。もちろん同罪だ。

透察者がそれ以上は覗けないと感じるような内面をもつ他人、そいつが演技者である。正真正銘の透察者と演技者の対面、これは(ポケモン対戦の用語では)「気まずい」対面だ。この組は傍から見ると鈍感-自己欺瞞の対面と見分けがつかない。透察者は相手に鈍感なふりをし、演技者は自分に鈍感なふり(=空とぼけ)をし……かくて両者指一本動かせない。

透察と演技──この二つはもちろん同じ能力に基づいており、両者を兼任する化け物(彼らはこんな文章すら書かない)は平気な顔をして身の回りに暮らしている。たぶん街中で占い師とかに身をやつしているだろう。片方の能力しかない中途半端な人間だけが身を滅ぼす。

イエスはもっぱら透察者だった。加えてソクラテスには演技の才能もあった。だが自らの演技のそのまた目的に対して鈍感だった。彼は自分が真に欲するところのものを知らない。

なぜオイディプスだけがスフィンクスの謎を解きえたのか。それは彼が彼自身の謎を解く能力がなかったからではないか? 自己への鈍感は他者への透察としばしば両立する。その無能力こそが彼をして自分以外の問題を解くことへと駆り立てるのだ。他人とは答えの伏せてある練習問題にすぎない。

汝自身を知るにはめしいとなるほかないのか? いや、その前にまず鏡を見ること。自己自身であるような汝を知ること。

参考文献

  • G・E・M・アンスコム『インテンション──行為と実践知の哲学』柏端達也訳, 岩波書店, 2022年.