転移性恋愛について——ラカンと読む太宰治「駈込み訴え」
(11/23(日) から発売の『転移性恋愛について』の前半部を先行公開します)
目次
- はじめに
- 第1章 総説
- 第2章 鑑別診断
- 第3章 解釈的介入
- 第4章 言説分析──症例ユダ
- 第5章 分析家-の-欲望──症例イエス
- 第6章 転移と恋愛
- 文献一覧
第1章 総説
1 精神分析以前の分析──イエスとソクラテス
ジャック・ラカンはその『転移』のセミネールの中で、プラトン『饗宴』のソクラテスとアルキビアデスのやり取りを「精神分析のセッションの報告書の一種のように捉える」(S8: 38/上38)ことによって、二人の間の愛にまつわる数々の謎を浮き彫りにしてみせた。アルキビアデスからソクラテスへの殺さんばかりの熱情の意味、にもかかわらずソクラテスはなぜアルキビアデスの愛が自分ではなくアガトンに向けられたものだと解釈したのか(cf. S8: 85/上100)、そしてなぜソクラテスは、自分も本当は愛しているはずのアルキビアデスからの愛を拒絶するのか(cf. S8: 189/上239)──これらはみな、彼によって導入された分析的視座のもとで初めて問うことができるようになった問いである。
我々はまさにこの視座を共有する。本書は、イエス・キリストの、イスカリオテのユダとの関係を同じく「精神分析のセッションの報告書の一種のように」捉えることによって再記述しようとするささやかな試みである。とはいえ聖書の中でのユダにまつわる記述はひどく簡素であって、その後世の者たちの伝聞による再構成は『饗宴』のような鮮明さを欠き、また何より、分析にとって欠かせない登場人物たちの生の発言のデータを欠く。そこで我々は、或る類まれなる文学的想像力の助けを借りることにする。
「駈込み訴え」は、師であるイエスを売るため彼に身代金をかけた祭司長のもとへと訴え出たユダの、一連の独白的な訴えかけから成る短編小説である。太宰による巧みな再構成のおかげで、我々は、福音書の中ではほとんど接点のないユダとイエスの関係のうちに転移の成立を読み取りうるだけでなく、それを一つの愛の現象として、それも転移による愛、転移性恋愛の現象として読むことができるだろう。
『饗宴』と「駈込み訴え」の共通点はいくつかある。師匠と弟子の関係が問題となっていること、その二者間の愛──それも師弟愛を超えた真正の愛──が主題であること、いずれも史実に基づいた創作であること、などがすぐに目につく点であろうが、それ以外にもある。例えば、『饗宴』ならアガトン、「駈込み訴え」ならマリアを含めた三角関係が焦点となること、この点はどうだろうか。そして何より、弟子から師に対する突沸のごとき公然の告発があること、この点は決して見逃せない。『饗宴』のアルキビアデスには、自分とソクラテスとの間で起こったアヴァンチュールを高名で学識ある客人たちの前で暴露するという、あのソクラテスをして「舌を慎まないつもりかね」と狼狽えさせたスキャンダラスな公然の攻撃がある。本論への導入に際して我々が最も注目したいのはここである。というのも、「駈込み訴え」とは全編、まさにそうした告発の訴えのみから成り立っている作品なのであるから。そしてもちろん、イエスの結末は知っての通り、狼狽だけでは済まなかったのである。
精神分析以前の分析、それは程度の差はあれ失敗した分析である。とはいえ、最良の学習素材は失敗した治療記録をおいて他になく、またフロイトの症例においてつねにそうであるように、再解釈のための手がかりはすべて転移の担い手の内に握られていたように思われる。それゆえ、我々はその経過を時系列順に次の五つの局面に区切り、ここに再構成していこう。①海辺のイエスとユダの対話(143–144頁)、②油を塗るマリアとユダの逆嫉妬(146–150頁)、③エルサレム入城と商人追放(150–154頁)、④最後の晩餐(155–160頁)、⑤銀三十の授受(161–162頁)。
2 野生の転移とアクティング・アウト
イエスとユダ、これは一つの分析的関係である。これは、師匠を分析家に、弟子を分析主体(被分析者)に擬えることができる、という理由からではない。そこに真正の転移(Übertragung, transfert)の成立が認められる、という理由からである。それは分析室の中だけで起こる現象ではない。師匠と弟子、医師と患者、教師と生徒、牧師と信者など「師」のつく職業には、より一般的に言って「主体間の非対称」(S8: 11/上3)が認められるところにはどこでも、転移の萌芽が存在するだろう。
転移とは何か、これは大きすぎて出発点に選ぶには筋の悪い問いである。転移というのがさしあたり分析家とその患者の間で生じるような何かのっぴきならない関係のことであるとして、我々が出発点に置くのは、それが分析室の内側ではなく外側で生じた場合にはどのような厄災がもたらされるのか、という問いである。いかにも、「駈込み訴え」はまさにその厄災をめぐって書かれた小説であると言ってよい。イエスとユダの間に認められるのは、精神分析以前の転移、分析室へと収容し損なった「野生の転移 transfert sauvage」に他ならない。
これにはみなさん疑いをもつかもしれませんが、転移が存在するためには分析などいりません。しかし、分析のない転移、それはアクティング・アウトです。そして、分析のないアクティング・アウト、それは転移です。ここから帰結するのが、転移の組織化にかんする問いの一つです。私は組織化という言葉で「Handlung」、つまり扱いのことを言おうとしています。問題となるのは、野生の転移をいかにして飼い慣らすか、いかにして野生の象を囲いの中に入れ、馬を円状に走らせ、メリーゴーラウンドの中を回らせるかということです。(S10: 148/上192f.)
さて、ここで野生の転移が行き着くと言われている「アクティング・アウト(行動化)」とは何だろうか。さしあたってここでは、「治療中に自らの症状や葛藤をうまく言語化できなかった分析主体が、それを治療関係の外で直接(多くの場合、危険だったり分析家を害したりするような)行動として表出すること」といった標準的意味を押さえておけばよい。とはいえ我々はすでにその実例を一つ知っている。すなわち、「駈込み訴え」というこの短編がその隅から隅までそうであるところのユダによる公然の告発、これ全体が一つの巨大なアクティング・アウトなのである。しかし、イエスには気の毒だが、「アクティング・アウトを禁止すること、それはもちろん、お笑い種です」(S10: 149/上194)。というのも、さらにイエスに気の毒なことだが、そうした「師」の位置を占めることを選び取ったのが他でもない彼である以上、そこで起こったことすべては──ゆえにその結末もまた──ある意味ではイエスが原因となって惹き起こしたことなのである。
事故が起こると〔…〕患者本人からもその周囲からも、いつも決まって分析の責にされます。これはいわば本性上、分析の責なのです。彼らには一理あります。これはアクティング・アウトであり、ゆえにそれは〈他者〉へと向けられているのですから、分析の最中であれば、それは分析家へと向けられていることになります。分析家には気の毒ですが、分析家がこの位置をとっているのですから仕方ありません。それでもやはり、彼は自身が占めることを受け入れたその位置に属する責任を負っているのです。(S10: 150/上195)
これは「分析における抵抗は分析家自身の抵抗以外にない」(É: 595)というラカンのテーゼの一帰結である。確かにアクティング・アウトとは否認する患者による分析家への抵抗のことであると──例えば裏切りの意図を否認するユダがそれを認めさせようとするイエスに抵抗するのだと──解されがちであるが、ここで何かを見ようと欲さなかったのはイエスのほうだ、ということはないのだろうか。そしてこの見落とし、やり損ないを〈他者〉へと告げるために──分析の最中であれば、イエスその人へと告げ知らせるために──ユダの独白劇は上演されていたのではないだろうか。
* 以下、慣例に従い、ラカンの大文字の他者(Autre)を〈他者〉と記す。また、これに対して、小文字の他者(autre)は〝他者〟と記し分けることにする。
ただし、この劇の観客はもう一人いる。というのもこれは中断された分析なのだから。この短編がカギ括弧一つで閉じるユダの長口上であり、それが「旦那さま」、すなわち祭司長という第三者──この短編全体を通じて沈黙を守りつづける不在の他者──へと向けられている、というこの太宰の配置の妙は恐るべきものである。イエスが担っていた分析家としての役割は祭司長へと置き換えられ(übergetragt)、その別の分析家のところで、かつて中断された分析が──以前の分析家への不満ともども──再開されることになるだろう。かくして、ユダのアクティング・アウトは「〈他者〉への告げ口」(清田 2020, p. 12)の形をとるのだ。ここで〈他者〉の位置は二重化させられている。
3 謎、アトピア、特異性
わたしの愛する他者、わたしを魅惑する他者はアトポスである。わたしにはその人を分類することができない。それがまさしく「唯一者」であり、わたしの特別な欲望に奇跡的なまでに呼応する特異的な「イメージ」であるからだ。(Barthes 1977, p. 43/54)
結局のところ、イエスの死因はアクティング・アウトである──それは疑いようのない事実である。野生の転移の扱いというものはかように困難を極める。それゆえイエスは、おそらくはソクラテスもまた最後には、その野生の象に踏み殺されたのだろう。このことは、我々が分析室の内や外で日々操作しているところの転移というものの本性を我々に再確認させてくれるものである。しかしなぜ、アクティング・アウトは、というより転移というものはそもそも生じるのだろうか。前者についてははっきりと、それは分析経験の中で何かが象徴化されなかったこと──後に見るイエスの或る「解釈」がユダの何かをむしろ覆い隠してしまったこと──に起因する、と言える。しかし収容と馴致に失敗したそれに限らず、およそ転移というものは何によって生じるのだろうか。究極的には、それは次のようなことだろう。
一言で言えば、分析において解釈不可能なもの、それは分析家の存在なのです。だからこそ、彼のことを見えるがままに、あるいは印刷されるがままに解釈することは、私たちがこの場所、つまりアクティング・アウトと呼ぶものへの扉を開くことに他なりません。(S16: 350)
つまり、失敗したものであれ成功したものであれ転移を惹き起こすもの、それは謎、彼がその身の内に秘めている謎、たとえその者が死んでいようとそれを印刷されるがままに読むだけで人を深く幻惑させる謎である。ラカンですら、ソクラテスという人間の並外れたアトピア(位置づけがたさ、分類不可能性)を前にして、「このソクラテスには殺されそうなくらいうんざりだ Ce Socrate me tue」(S8: 103/上123)とその疲労を露わにせずにはいられない。そして私はイエスについても同じかそれ以上の疲労を感じながらこうして筆をとっているのである。
* また、次も参照。「ソクラテスが、人間の謎そのもの、いまだかつてみたことのない事例、どんなピンセットでつかもうと試みてもどうにもできない事例のように見えるのは、何も私だけではないでしょう。誰にとっても、〔ソクラテスについて〕真に問いを立てるたびに、そのように見えるのです──どのようにしてこのような人間が拵えられたのだろうか。どうして彼はあらゆるところに混乱を撒き散らすことになるのだろうか──姿を見せては、日常的な出来事に見えるちょっとした話をしているだけなのに」(S8: 433/下263)。
この謎こそが人をしてアクティング・アウトを誘発させるということ、これは確かに皮肉なことである。しかしその同じ効果によって転移の他者が主体の内に植え付けられ、本来なら主体の内側で閉じられていた症状は彼へと向かって開かれ、そして主体はその混乱を分析室の内または外へと撒き散らしつつ自らの症状を読解可能なものにするだろう。これ以来、その他者はラカンの言う〈大文字の他者〉Autre として、すなわち被分析者のパロールの場として機能しはじめることになる。そして、一つの謎として存在すること、それ自体に責任があるわけではないにせよ、確かにその撒き散らしの原因を成しているその〈他者〉がそれでもなお「師」の椅子に座りつづけることを選ぶ限り、すでにして彼はその責任のない原因に対する或る全面的な責任を負いはじめているのである。
* この引用に関連してHewitson(2010)は次のように述べている。「分析家の解釈不可能な存在がアクティング・アウトを惹き起こす、つまり分析主体が分析家の欲望を読み取ろうとすることでアクティング・アウトが生じることがある、とラカンは考えている。これは精神分析の危険性の一つである」(Hewitson 2010)。
今日、我々がアルキビアデスやユダを読むことができるのはそのおかげである。しかし、だからこそ、と言ってもよいだろうが、それゆえにイエスはこの短編の中で完全に謎の点に留まっている。しかし我々はこの謎についても──解き明かすとは言えないまでも──確かに触れると約束しよう。
第2章 鑑別診断
1 憎悪と逆嫉妬の謎
それでは「駈込み訴え」を読んでいこう。ところで、およそテクストというものは、問いを立てて読みに行った箇所しか読めないものではないだろうか。急所に狙いを定めて、いわば読みちぎるようにして読み、そうして口の中に残ったわずかな肉片しか糧にならないように私には思われる。それゆえ我々はいくつかの足掛かりとなる問いを立て、そこから出発することにする。
この短編には少なくとも初読では理解不可能な点──とはいえ初読で謎だと気づけるような謎──が、ユダに関する限り二つある。まず一つは、なぜユダはあれほど慕っており「愛している」とまで言い切るイエスのことを他方でこんなにも憎み嫌っているのかである。あるひとは「愛と憎しみは同じコインの裏表である」(両価性)などというお決まりの命題を持ち出して納得したふりをするかもしれないが、この命題こそがそれ自体ふたたび謎に包まれているのであって、これはそれ単体で解決可能な謎ではない。
* 愛憎の両価性自体はどのような人にも見られるものだが、ユダのように「破壊への傾向がそれ自体として切り離される」(S5: 399/下222)とき、つまり愛憎の「脱融合 défusion」が起こるとき、それは初めて病的と言える形をとる。
より難解なのはもう一つの謎のほうだ。ユダは、イエスに「三百デナリもする」(147頁)高価な香油を塗り、それによってイエスに特別扱いされたと彼が感じた娘、マリア(いわゆるベタニアのマリア)に対して嫉妬を抱いている。しかし不可解なことにユダは、今度はそのマリアに対して嫉妬ではなく恋情を向けはじめ、あまつさえ次は翻ってイエスに対してこの娘をめぐっての嫉妬を向けはじめるのだ。この逆嫉妬とでも言うべき現象をどのように理解したらよいのだろうか。
これは次のようなことである。この長台詞の全体を通じてユダがあれほど執拗く何を繰り返し力説しているかといえば、それは結局のところ、「私はイエスを愛している」というただ一つの事柄である。とすれば、その二人の間にマリアが割って入るとき、そこにあるのはジェラシィ、嫉妬であるだろう。
ああ、ジェラシィというのは、なんてやりきれない悪徳だ。私がこんなに、命を捨てるほどの思いであの人を慕い、きょうまでつき随って来たのに、私には一つの優しい言葉も下さらず、かえってあんな賤しい百姓女の身の上を、御頬を染めて迄かばっておやりなさった。(149–50頁)
しかしユダはこうも言うだろう。
マルタの妹のマリヤは〔…〕骨も細く、皮膚は透きとおる程の青白さで、手足もふっくらして小さく、湖水のように深く澄んだ大きい眼が、いつも夢みるように、うっとり遠くを眺めていて、あの村では皆、不思議がっているほどの気高い娘でありました。私だって思っていたのだ。町へ出たとき、何か白絹でも、こっそり買って来てやろうと思っていたのだ。ああ、もう、わからなくなりました。私は何を言っているのだ。(148–9頁)
ここでユダはセッションにおける重要な局面、自分の口が何を語っているのか知らずに語る地点に至る。ユダが分からないのは、そして我々もまた分からないべきであるのは、ユダの本当の愛の対象はいったい誰なのか、という点である。すなわち、私はイエスを愛しマリアを憎んでいるのか、それともイエスを憎みマリアを愛しているのか。
* これは、メラニー・クラインの区別を借れば、ユダは(マリアに)嫉妬しているのか、それとも(イエスに)羨望をもっているのか、と言い換えられる。嫉妬においては攻撃性は第三者へと向かうが、羨望では対面している相手へと直接差し向けられる。これは、かれは愛しているのか憎んでいるのか、という問いを考えるためのよりましなやり方である。
これはおそらく常軌を逸した問いである。ひとは、自分の愛の対象、定義上かならず特定の誰かへと向かう志向的作用の対象を自分で取り違えるなどという甚だしい錯誤を犯すことができるのだろうか。自分が本当に愛していると思っている対象が実は囮であって、本当の愛の対象が別のところに存在する、などという可能性を、ひとは普通に生きていて一度でも考慮に入れることがあるだろうか。しかし、その可能性を精神分析は、それ以前にプラトンは(アルキビアデスのアガトンに関して)認識して書き留めたのであり、それによって愛情の対象の置き換えという、転移の重要な一側面にまつわる真理の発見に先鞭をつけていたのである。ここ「駈込み訴え」でも同じく、問題となるのは三者関係である。さて、我々はここで、恋愛におけるいわゆる三角関係の分析に深く立ち入らなければならない。
2 欲望の三角回路──競争・二股・三角関係
言語を話す存在である人間がみな多かれ少なかれ神経症的であるとして、神経症というものには結局のところ強迫神経症とヒステリーの二つしかない、というのは奇妙な事実である。「なぜ主要な神経症が二つなのか? たとえば、なぜ四つ、あるいは六つや七つではないのか?」(Fink 1997, p. 117/172)という問いは、「人の性別はなぜ二つしかないの?」という子どもの問いと同じように響く。
「欲望は〈他者〉の欲望である」という人口に膾炙したラカンのテーゼにも、それゆえ、三角関係の分析というここでの文脈に関する限り、次の二通りの意味がある。それはまず、強迫神経症者においては、〈他者〉が欲望したのと同じ対象を欲望する、ということを意味する。例えば巷で話題のゲーム機(品薄であるほどよい)や、ユーズドだったり共用だったりする女(「一盗二婢三妓四妾五妻」という成句の通り)がそうだ。このように、事物の場合は価値あるもの、人物の場合は逆にフロイトの言う「貶められた erniedrigt」(GW8: 83)女性が選ばれるが、いずれも本質的なのは大文字の他者としての〈他の男〉との競争であり、そうした自分の格上の存在こそが彼をいきり立たせるのだ。
* 「強迫症者の〈他の男〉との競争こそが彼の活力をいわば漲らせるのであり、怒ったり掻き立てたり、逆に劣等感を感じたり優越感を感じたりさせるのだ。彼は、意識的には、自分を魅了するのは〈他の男〉の女であると信じているが、無意識的には、自分を魅了するのは〈他の男〉との戦いであると信じている」(Fink 2017, p. 10)。
ただし、ここでの「事物」には、物神=偶像化された人物、宮廷愛において見られるような、性目標から外れるほど神聖視(性的過大評価)された崇拝対象としての人物が含まれることに注意されたい。強迫症者によく見られる「聖母(聖処女)/娼婦」という古典的分割もここから生じる。とはいえ、聖母と娼婦、物神化と物格化、いずれにせよ〝物〟化であることに変わりはなく、ここには、強迫症者に見られる〈他者〉の否定という同一の機制が等しく認められる。
*1 例えば Fink 1997, p. 123/179 を参照。それゆえ、よく指摘されるように、強迫症者は愛するところで欲望できず、欲望するところで愛することができない。
*2 男性に広く見られる女性対象の物格化傾向については、宮台(2013, p. 180ff.)の豊富なフィールドワークに基づく観察が詳しい。加えて彼はそうした男性がもつ母親への固着を的確に指摘している(p. 176)。
とはいえ、強迫症者がこの三角形──〈他者〉の欠けた三角形──を維持する必要があるのには、彼の欲望が掻き立てられるための条件以上のものがある。実際、彼の本命が実はところその〝対象〟ではなく、競争することそれ自体、あまつさえ競争相手である〈他の男〉その人であるとするなら、そんな代理人を置かずに彼と直接対決したらよいではないか。しかし、それこそは彼が何よりも避けようとすることなのである。この三角形の成り立ちには、ある神経症的回避の戦略、彼の〈他者〉との直接対峙を避けるという動機が見て取れる。三角形という構造的に安定した布置をこさえて相対の衝撃を逃すこと、このこと自体はヒステリー者にも見られる行動であり、一般に愛情の対象の身代わりとしての転移性恋愛の温床でもある。とはいえ、ことに強迫症者において典型的であるのはここでもやはり〈他者〉の否定である。例えば強迫症者は、関係が進むにつれその〈他の男〉と同じだけの重要性を持ちはじめてしまったパートナーを前にしたとき、ある別の欠けた三角形を生み出すだろう。それがいわゆる二股であり、彼は目の前のパートナーの自身にとっての重要性や代替不可能性を、今ここにいない別の相手を密かに持ち出すことによって否定しようとするのである(cf. Fink 1997, p. 124/181)。
*1 強迫症者の作る三角形はどれも〈他者〉に当たる頂点が欠落する。このことから、強迫とヒステリーの差異を、二股を好むか三角関係を好むか、という点によって特徴づけることもできるだろう。両者の差異は、第三者との関係の存在をパートナーに隠しておかねばならないか、それとも三者が互いに互いの関係を知っておりオープンであるか、という点に求められる。後に見る理由によってヒステリー者が三人全員がその場に現前していることを望むのに対して、強迫症者は〈他者〉がその場に現前していてほしくはないし、しかも場合によっては絶対的に不在である(例えば死んでいる)ほうが最もよい──永遠に競争に負けつづけることで欲望を不可能なまま延命させることができる──のである。
*2 結論を先取りして言えば、ここで述べた二種類の三角形が、ユダにおいてそれぞれ、マリアとの関係、祭司長との関係に対応する。
他方、ヒステリー者においてこのテーゼは、〈他者〉の欲望の対象であること、より適切に言えば、〈他者〉の欲望を掻き立てる原因(対象a)として存在すること、を意味する。欲望することよりもまず欲望の対象であること、これが彼女たちにとって何よりの関心事となるだろう。また、〈他者〉の位置が強迫症者では競争相手の第三者であったのに対して、ヒステリー者ではパートナーの位置を占め、ライバルとなる第三者は〈大文字の他者〉ではなく〝小文字の他者〟、すなわち彼女の同類(semblable)となるだろう。彼女たちの多くはライバルと競争をせず、それどころか愛と同一化によってアプローチしようとするので、この点が我々をしばしば混乱させる。
実際、三角関係における彼女たちの振る舞いは、こうした構造を知らない者──とはいえ男も女自身も知らないのだが──にとってはかなり奇異なものとして映るだろう。彼女たちはその自分の恋敵であるはずの女性へと同一化し、それを模倣し熱心に研究しては、ときに共犯のような奇妙な同盟関係を結びさえする。加えて彼女たちは、一見不合理なことに、彼が自分以外の対象のことも欲望することを望む。これは、彼の欲望が自らの内奥で果ててしまうよりはむしろ、それを不満足のまま生かしつづけることを望むからである。
しかし、さらに進めば、最も究極的に不可解なことが起こる。すなわちヒステリー者は最終的に、自分のパートナーを差し置いて、自分の恋敵であるはずの人物に対する恋に陥るのである(汝の敵に愛を以て接せよ、というのはイエスの教えである以前にまずもってヒステリー者の無意識がとる術策なのである)。これが、ドラの症例においてフロイトをあれほど動揺させた、ヒステリー者における「同性愛的な愛情の蠢き」(GW5: 284)である。とはいえ、「同性愛的」というのはここでの実情にそぐわない。実際には、ヒステリー者にとって重要なのは対象が自分と同性か否かではなく、自分の性別がどうあれ、対象が女であるということなのである。彼女たちがあれほど固執しているものとは、女性性という謎、つまり、ひとの欲望を掻き立てつつもそのひと自身の欲望が見えてこない被愛者という謎である。
ただし、彼女たちはただ女二人でいるだけでは決して恋に陥ることはないだろう。それには、その別の女に向けて欲望を向ける男が要るはずである。それを前にして男が欲望を露わにする対象の前で、彼女は立ち止まり、その(男の)欲望そのものへと同一化してその謎の女を愛する。この水準では、欲望の対象への同一化は欲望そのものへの同一化に道を譲り、女への同一化は男への同一化に取って代わる。ヒステリー者をヒステリー者たらしめる「私は女なのか男なのか」という問いは、こうした同一化の対象の揺れから生じる。ゆえに、ヒステリー者に対して「何を欲するのか Che vuoi?」と問うことはしばしば謎をさらに深めるだけなのであって、より適切な問いは「(貴女の中で)誰が欲望しているのか Chi vuole?」とでもいったものとなるだろう。愛の対象もまたそれに伴い反転する。かくして彼女はしばしば、自分がそのどちらを愛しているかが分からなくなる。ヒステリー者はその同一化によって三角形の複数の頂点を比較的自由に遊泳する。ゆえに、女は複数である。
* 「ただ、フロイトは、彼自身の告白によれば、ドラの欲望の対象に関し、ある誤りを犯しています。〔…〕フロイトは、ドラの中で誰が欲望しているのかということではなくて、ドラは何を欲望しているのかということを問うていました。そしてフロイトは結局次のことに思い至ります。つまりドラとその父、K夫妻から成る四人組のバレーの中で、K氏に自身を同一化していたドラの興味を、真にひいている対象はK夫人だということです」(S3: 197/下28, 強調引用者)。
強迫にせよヒステリーにせよ、一般に、神経症者とは三者関係の中でしか愛することができない人々のことである、と言えよう。エディプス・コンプレックスなどと言われているものについて真に重要なのは、人間の対象関係がその原初から三角形で成り立っていたということではないだろうか。
そしてこれに関連して、この短編を読む上での一つの原則を掲げておこう。それは、イエスとユダ、この二者関係の間に起こるようなあらゆることには何の重要性もない、という原則である。それこそがつまり転移ということであり、この関係を理解するための鍵はつねに関係の外、第三項の位置に置かれているのだ。それゆえ我々の読解もまた、ユダがその第三項に当たる人や物を取っかえ引っかえしていくさまを執念深く追跡していくことにある。
3 神経症選択の問題──強迫とヒステリー
さて、以上を踏まえて、この症例「ユダ」は強迫/ヒステリーのどちらの構造に当てはまるだろうか。これはフロイトの言う「神経症選択 Neurosenwahl」(GW7: 456)の問題である。まず目につくのは、ここでのユダが、好意を向けているイエスが好意を向けているマリアに好意を向けている、ということだ。愛の三段論法とでも言うべきこの推移的関係(A→B→C)は一見、我々にフロイトのヒステリー患者たち(ドラ、肉屋の女房)を思い起こさせる。
この見立てはまったくの誤診というわけではない。生物学的性別はそれに対応する神経症構造を決定しないのであって、女性の強迫神経症者も、それよりはるかに少ないが男性のヒステリー者も、確かに実在するからだ。またそれだけでなく、分析がある程度進んで〈他者〉への開口部が露わになってきた強迫症者にはいわゆる「ヒステリー化」が起こるからでもある。
*1 我々はこれを単なる政治的正しさのためのエクスキューズとして述べているのではない。そうではなく、そのような生物学的性別に対する先入見を抱いている者にこの短編は読めないと言っているのだ。「男性のヒステリーは女の構造によって特徴づけられる。〔…〕女性の強迫は男の構造によって特徴づけられ、彼女の享楽は本質的に象徴的でしかない。/〔…〕それゆえ分析家のトレーニングの一部は、女性はヒステリーであり、それゆえ女の構造を持つ者として特徴づけることができる、などと即座に想定してしまうような古い思考習慣を打破することにある。〔…〕生物学的な性にもとづいて結論に飛びついてはならないのである」(Fink 1995, p. 108/156)。
*2 ヒステリー化については Miller 1988、および Fink 1995, p. 136/193 を参照。
しかし、「重要なのは欲望を捉えることであり、そして欲望は文字通り〔à la lettre〕捉えることによってしか捉えられません」(É: 641)。それゆえ額面通りにではなく、しかし文字に沿って、次のユダのパロールを読み上げてみよう。
あの人が若いなら、私だって若い。私は才能ある、家も畠もある立派な青年です。それでも私は、あの人のために私の特権全部を捨てて来たのです。だまされた。あの人は、嘘つきだ。旦那さま。あの人は、私の女をとったのだ。いや、ちがった! あの女が、私からあの人を奪ったのだ。(149頁)
この失言を見よ! 太宰はここで、欲望をそのシニフィアンのレベルにおいて再現する、という離れ業をやってのけている(言うまでもなく、聖書にはこんな言い間違いの記録は一つも残っていない)。太宰がしているのは、意味内容の深みに入ってしまうことなく、文字という表層、象徴的水準に敢えて留まり、欲望を文字に沿って読み書きすること、これである。だからこそ我々は、なるべく史実を超えた筋には触れないようにしつつも、史実や聖書の読み手としての太宰に全幅の信頼を置いて論を進めることができるのだ。ともあれ、この言い間違いが意味しているところはただ一つ、ここでのユダの本当の愛の対象はイエスではなくマリアだということである。
* 他にも太宰は、ユダが接吻によってイエスの居場所を示すという有名なエピソードにも、「私は今夜あの人と、ちゃんと肩を並べて立ってみせます」(161頁)と、同じ競争関係とその顕示への欲望を読み取っている。確かに言われてみれば、愛の表現とされる接吻だが、そのさいには物理的にも肩を並べることになるのだ。
「私は本当は貴方のことを愛していない」と、「そのことを私はまだ知りたくない」の綜合、それが嫉妬である。それは「貴方が私を本当は愛していないのだ」という投射の形をとる。ひとは自分の中に生じた愛の喪失をこそ最も認めたがらないものだ──相手からの愛の喪失のほうはむしろ好んで疑ってみせたりするにもかかわらず。
さて、この言い間違いを導きの糸として、我々は神経症選択の難所を越えることができる。この峠を越えた我々は、実際のところ転移神経症にすぎない人工的なヒステリー症候を退け、攻撃性と競争関係、対象の偶像視や性的過大評価、強情さや金銭への執着といった肛門期的性格(cf. GW10: 402)、等々のあらゆる強迫的兆候が視野に入ってくるだろう。
第3章 解釈的介入
1 抵抗の分析の陥穽──最後の晩餐
強迫症者の病態を最も端的に特徴づけるあの攻撃性、それはラカンの言うように、はっきりと「死の要求 demande de mort」(S5: 506/下384)である。「愛憎の両価性」などという生易しい言い方で実際のところ言われているのは、まさにユダに見られるような、愛することと殺すこと──ただし隠喩的な意味で──の間に打ち立てられた等値性に他ならない。この理由一つとっても、強迫症の治療が困難で長引くものになるだけでなく(cf. S10: 132/上171)、ときに危険を伴うものにもなることが分かるだろう。
それゆえ転移のハンドリングもまた、まずもって彼の攻撃性のハンドリングの必要性として迫ってくるように見えるかもしれない。ユダの場合、それはイエスに対する死の要求の発露としての裏切りであった。だがここに、強迫症者の治療の指針における最大の罠がある。彼の攻撃性、あるいはその逆位置にある、自らの攻撃性に対する自己治療としての諸々の防衛機制──崇拝、沈黙、取り消し、またそれらすべての根源にある罪悪感──これらに対する解釈を与えるべきではないのである。
これはみなさん全員が知っていること、少なくとも治療の作業の一端を担ったことのある人なら誰でも知っていることに通ずる事柄です。すなわち強迫症者には、励ましたり、罪悪感から解放したり、やや先走りすぎた解釈的コメントをすら与えたりしてはならないということです。もしそういうことをすると、みなさんはもっと先まで進まなければならなくなり、そしてみなさんはある種の機制に譲歩し、接近し、そして大変な損害を被ることになります。つまりその機制によって強迫症者は、いわばひとつの糞であるような彼自身の存在をみなさんに食わせようと望むようになるのです。(S8: 249/下17f.)
この最後の一文については節を変えて述べるとしても、イエスにおけるその帰結は明らかである。つまり、ユダは「一日も早くあの人を殺してあげなければならぬ」(151頁)の強迫観念の方向へとイエスはもっと進まなくてはならなくなり(「おまえの為すことを速かに為せ」160頁)、イエスは大変な損害を受けることになったのである。それゆえ、ひとたび治療者の椅子に座った者は、彼らが自分に向けてきた刃や仕込み刀を、それに気づきながらも、黙って見過ごすのでなければならない。イエスは道徳哲学者としてはともかく立派な臨床家であったので、この点に関してきわめて優れた臨床的原則を持っていた。それは、「誰かがあなたの右の頰を打つなら、左の頰をも向けなさい」(マタイ 5: 39)というものだ。これは万人にとって普遍妥当性をもつべき道徳律であるどころか、イエスにとっては、それを破れば転移の過剰効果が不可避のものとなるだろう最終防衛線ですらある。しかし、後に見る理由から、この命綱を最後の晩餐のイエスは手放してしまった。イエスが自らの命を断つことになった致命的な解釈の一振りを見てみよう。
ふっと、「おまえたちのうちの、一人が、私を売る」と顔を伏せ、呻くような、歔欷なさるような苦しげの声で言い出したので、弟子たちすべて、のけぞらんばかりに驚き、一斉に席を蹴って立ち、あの人のまわりに集っておのおの、主よ、私のことですか、主よ、それは私のことですかと、罵り騒ぎ、あの人は死ぬる人のように幽かに首を振り、「私がいま、その人に一つまみのパンを与えます。その人は、ずいぶん不仕合せな男なのです。ほんとうに、その人は、生れて来なかったほうが、よかった」と意外にはっきりした語調で言って、一つまみのパンをとり腕をのばし、あやまたず私の口にひたと押し当てました。(159頁)
イエスは明らかにやってはならないことを一つした。それは、「一つまみのパン」をユダの口に押し当て、裏切り者の所在を公然と示すことだ。というのもそれは、その場に紛れ込んだ犯人を言い当てることではなく、むしろある者に「裏切り者」という名を与えること、それによって初めてそれにこの世の生を与えることだからだ。これは解釈というよりほとんど暗示である。確かにイエスは、ユダの腹心をあやまたずに透視し、それに解釈を与えた。だが、まさにここに、自らの能力を持て余した透察者が必ず陥る落とし穴がある。つまり、ユダの事後的になされた告白(「私も、もうすでに度胸がついていたのだ」159–60頁)に反して、一つまみのパンがユダの口に押し当てられるそのときまで、ユダの心にこの裏切りの意図は存在しなかったのではないだろうか。もちろんイエスが言うように裏切りの欲望は確実にあった。しかし「それは単に欲望だった」(Fink 2004, p. 16/33)。しかしイエスはこれを、欲望以上の何かに、つまり現実の何かに仕立てあげる。いや、性急に解釈を与え、欲望に形を与えることによって、そう仕立てあげることをイエスが望んでしまったのだ。ここにイエスの逆転移がある。彼は確かに最悪の未来を見通した。だがそれを見通しておきたかったのは、それ以上ユダに幻滅したくなかったからではなかったか? この行動一つ見るだけですでに、ユダがイエスにとって、少なく見積もっても最愛の弟子であったことは疑う余地がない。イエスが愛によって正気を失う様子は後にも先にもここだけである。隣人愛やアガペーとはさしずめ、苦しむ必要のない愛のことなのだろう。
ともあれ、この点において、フロイト的無意識という発見の真価は今日もなお汲み尽くされていない。つまり、無意識とはある意味、この現実においては無に等しいものなのである。すなわち、その読み方を心得た透察者の介在がなければ、それはユダ本人はもちろん誰にとっても、初めから存在しなかったのと同じことである。ゆえに、転移によってそれをうっかり覗き見てしまった者は──たとえそれが自らに向けられた殺意であったとしても──それを自分以外は誰も知らないものとして、それゆえこの世には未だ存在しないものとして読まなければならない。これが分析家につきまとう最も深い守秘義務である。ひとはそれを目で見て読み取ってもよいが、決して口に出して音読してはならない。というのもそれは、見ての通り、読み上げれば直ちに自己成就する予言なのだから。
それゆえ、強迫症者の治療を、彼の攻撃性(死の要求)を解釈し、その攻撃性を彼が自分で認めることへの激しい抵抗を除去することだと考えるなら、そのような解釈的介入はまず間違いなくこのようなアクティング・アウトを引き起こすだろう。そしてその理由を、彼をいささか直裁な解釈によって逆上させてしまったからだ、などという情動の水準でしか捉えないなら、この失敗から学ぶべきものは何もないだろう。というのも、ここにはほとんど絶望的とも言える事実があって、それは、ひとはその罪責感によって悔い改め、罪を避けるようになるどころか、まさにその罪の意識から罪を為し、良心の重しに耐えかねて罪を反復するということである。そしてまた、これは防衛機制というもの一般について言えることだが、患者の防衛は文字通り防衛なのでむやみに取り上げてはならないということである。彼らのせっかく築き上げたでっちあげや覆いを取り去って現実に直面するよう強いたなら、彼らはより悪いもの、症状よりもずっと悪いもの──つまり彼の現実界)──を裸眼で正視する羽目になるだろう。
* これはフロイトの残した最も鋭利な洞察の一つである。「この無意識的な罪責感が高まると、人間は犯罪者になりかねないことが確認されたのは意外なことであった。〔…〕その罪責感は犯行の前から存在しており、ゆえに犯行の結果ではなく、その動機となっている。あたかも、この無意識的な罪責感を手近な現実的なものに結びつけることができれば安堵感が得られるかのようである」(GW13: 282)。
分析家が自らのことを知っている主体と想定するとき、そこに「抵抗」が生まれる。つまり、自分が見通したと思っているその地点に比べて、患者がいま現在いる位置があまりに手前にあると感じたときの苛立ち、それが抵抗である。これは分析家のものである(「たった一つの抵抗しかありません。それは分析家の抵抗です」S2: 267/下93)。
* このような場合にできるのはただ一つ、待つことである。「待たなくてはなりません。主体が象徴的平面において問題となる時間を実現するために必要な時間、つまり分析の中で経験したものによって──すなわち抵抗の分析が実際行っている追及、争い、重圧によって──反復強迫に固有な持続時間をとり除くために必要な時間を待たなくてはなりません。この必要な時間こそが、この反復強迫にいわば象徴的価値を与えてくれるのです」(S1: 314f./下205)。
アクティング・アウトは何のために為されるか、を考えてみなければならない。つまり、ユダはイエスに怒っているのではなく、「貴方は見落としている」というメッセージを送っているのだ。ただし、ここにも先に見た無意識というものの真髄があって、つまりユダは正確にはこう言わんと欲しているのである。「あなたの咎、それはあなたが私について、私も知らない何かを見落としたことです」と。それはイエスが知っているべきこと、少なくとも知っていると想定される余地を残さなければならないことだった。しかしイエスは知らず知らずのうちに自らの無知を無知として開示し、そしてユダは、彼ら二人が見落とした第三項を、今度はある第三者の中へと、つまり祭司長の中へと探し求めようとするだろう。
2 プレゼントと象徴的解釈──海辺のシーン
患者はさらに、こうも言います。「私は君に私を差し上げます、でも──成句に言うところの──私が捧げたこの身〔女性が自らの身体を差し出すこと〕は、あら不思議、不可解なことにウンチのプレゼントに変わってしまうのです」。(S11: 241/下325)
さて、失敗のさらなる原因を探る前に、ここでイエスの臨床実践の成功例を一つ見ておこう。「駈込み訴え」における海辺のシーン(143–144頁)は、作中ではほぼ唯一の、聖書の裏付けのない、太宰の創作によるエピソードである。しかしこの箇所は、解釈的介入とはどうあるべきかに関して、『饗宴』のソクラテス以上の模範例であるように思われる。それはちょうど、ユダがイエスに、ある「食えない」要求をしたところから始まる。
私には、いつでも一人でこっそり考えていることが在るんです。それはあなたが、くだらない弟子たち全部から離れて、また天の父の御教えとやらを説かれることもお止しになり、つつましい民のひとりとして、お母のマリヤ様と、私と、それだけで静かな一生を、永く暮して行くことであります。私の村には、まだ私の小さい家が残って在ります。年老いた父も母も居ります。ずいぶん広い桃畠もあります。春、いまごろは、桃の花が咲いて見事であります。一生、安楽にお暮しできます。私がいつでもお傍について、御奉公申し上げたく思います。よい奥さまをおもらいなさいまし。(144頁)
さて、またもや(「よい奥さま」を交えた)三者関係だが、この点は措こう。これは典型的な陽性転移の幻想であり、攻撃性が抑えられ愛が前面に出ているにもかかわらず、その愛は治療に対する抵抗として現れたものでしかない。イエスはそれを分かっている。だがそれにしても、こうした誘惑に対するイエスの耐性は少し常軌を逸している。というのも彼は、ユダの要求に対して、行動はおろか発話の水準においてすら応答しようとしないのだ。この一風変わった〈他者〉は、ユダの求めるもの──とりわけ認可や禁止──を何一つ与えることなく、ただ次のように呟く。
そう私が言ったら、あの人は、薄くお笑いになり、「ペテロやシモンは漁人だ。美しい桃の畠も無い。ヤコブもヨハネも赤貧の漁人だ。あのひとたちには、そんな、一生を安楽に暮せるような土地が、どこにも無いのだ」と低く独りごとのように呟いて、また海辺を静かに歩きつづけたのでした〔…〕。(144頁)
お気づきだろうか。これはイエスによる「解釈」である。少なくともユダはまったく気がつかなかっただろうが、にもかかわらず、いやそれゆえに、解釈はすでにその効力を発揮し終えており、それによってユダの陽性転移はピタリと止まったであろうことは明白である。イエスは何を言っているのだろうか? あるいはむしろ、何を言っていないだろうか?
「安樂に暮らせる土地」などという語やその意味内容に気を取られてはならない。そうではなく、イエスはこの解釈においてユダの話を一言もしていないということ、これこそ刮目すべき点であり、そしてまた最後の晩餐の彼との決定的差異でもある。ユダ-イエスという二者関係について要求に応じて何かを言うべきところで、彼はある第三項へと、すなわち、他の弟子たちへと自然に目移りを起こしている。にもかかわらず、この「言い逸らし」によってこそ、イエスはある応答責任を鋭敏に果たしているように思われる。彼は何に応答したのか? それは、先ほどのユダの台詞の中の「くだらない弟子たち全部から離れて」(同所)である。これこそはイエスがユダの自我(シェーマLで言う a)ではなく無意識の主体(S)の声を聞き取った証拠である。しかしイエスは「お前はまた他の弟子たちと争っているのだね」などといった有意味な解釈を入れることはない。それはおそらくイエス自身このことに気づいてはおらず、ゆえに彼の自我(a')ではなく無意識(A)によって自動応答しているからなのだが、ここには熟練した分析家に見られる最良の美徳がある。
* 「分析家が他者に欠けているものを持つことができるためには、無知を無知として持っていなければなりません。〔…〕実際、分析家もまた無意識なるものを持たずには在りません。おそらく彼は、分析主体が知っていることすべてをつねに超えたところに在ってそれを分析主体に言うことなどできません」(S8: 279f./下56)。
しかし、だからこそイエスは、ユダのこの幻想においてすでに彼自身に危険が迫っていることにも気づいていなかっただろう。強迫症者の振る舞いの道徳性や献身性(「命を捨てるほどの思いであの人を慕い、きょうまでつき随って来た」149–50頁)は確かに本心そのものなのだが、しかしそれ自体一つの症状、強迫的幻想なのであって、ラカンの言うように「そこでは「すべてを私の同類である〝他者〟のために捧げる」と言われるのですが、〈他者〉が同類でないことによって抱かされる不安は認識されていません」(É: 615)。実際、先の幻想の中のイエスとは、ユダが相手の立場に身に置いて「自分がして欲しくないことは他人にもしない」の道徳的実践をできるような、彼を〈イエス〉たらしめるあらゆる特異性を武装解除され、体よく去勢された小文字の〝他者〟にすぎなかった。まさにこのようにして強迫症者は〈他者〉を破壊する。それは直接破壊などではなく、〈他者〉の欲望の破壊であり、その特異性の否定であるような何ごとかを欲望するということだ。
強迫症者は〈他者〉の欲望を破壊することに専念しているのです。強迫症者の領域の内部へと接近しようとするといつも、通常の場合、少しでもそれに捉えられてしまうならば、結局は隠れた攻撃、恒常的な損耗を受けることになります。これは他者において他者固有の欲望であるようなものを廃止し、その価値を切り下げ、貶める方へと向かいます。(S5: 468/下326)
ここでの「隠れた攻撃」、それはイエス固有の欲望の廃止であり(「天の父の御教えとやらを説かれることもお止しになり」144頁)、そのようなものとしての〈他者〉イエスの否定である。実際、そのためにユダは幻想の中に「お母のマリヤ様」まで召喚するのであり、するとイエスは今やその母との関係の中で〝つつましい民のひとり〟にまで降格させられる。このような大文字の〈他者〉の小文字の〝他者〟への貶めというものがある以上、この時点ですでに、ユダの競争相手は「無能でとんまの弟子たち」(141頁)などではなく、イエスその人であると見なければならないだろう。
強迫症者の攻撃性などと簡単に呼び習わされているものはまさにこの、〈他者〉の特異性の否定の欲望のことでなければならない。つまり攻撃性とは、イエスを死に至らしめた彼の裏切り──それは攻撃性ではなく攻撃にすぎない──のうちにではなく、この何ら剣呑なところのない牧歌的な献身的幻想のうちにおいてこそ、逆説的に、最も純粋な形で見てとることができるものなのだ。
* 「我々が乱暴な使い方をしている攻撃性という言葉の本当の意味をさぐる必要があります。攻撃性とは攻撃のことだ、と考えられていますが、この二つは絶対に一緒にしてはなりません。攻撃性が攻撃に変わるのは極限においてであり、普段は潜在的なものに留まっています。しかし攻撃は命にかかわる現実とは何の関係もなく、ただ想像的な関係に結び付いた存在を賭けた行為なのです」(S1: 200/下29)。
3 受取拒否と転送届──想像的転移
これが、分析的関係において差し出された愛を受け取ってはならない理由、その一例である。もちろんイエスは、何より史的イエスは、こうした個別事由の洞察によらずに、誰からも愛を受け取ろうとしない──少なくとも、自分へと向けられたものとしては。ソクラテス同様、イエスは大いなる愛の横流し屋である。彼もまた、人々が自分へと向ける愛を、例えば「わが神」「どこか眼に見えないところにいるお前の誠の父」(143頁)に向けられている、と解していたかもしれない。それも悪くなかろう。それは幻想だが、しかし確かに有用な、ほとんど護符となるような幻想であって、そしてそれは、人々が不可解なことに郵便局宛てに手紙を出している、ということを明らかにしてくれるだろう。これこそは想像的転移につきものである誤配、はっきり言って人違い、十字架のイエスもそうなった「身代わり=転嫁 imputation」(cf. É: 591)の、その根本定式である。神経症者とは三者状況の中でしか愛せない者である限り、そこにおいて本質的であるのはこの人違いである。我々はすでに、ユダの愛の対象と競争の対象、そして告白の対象の取り違えを見た。
ところで、愛のほかにもう一つ、イエスがやんわりとその受け取りを拒否した何かがあったのを思い起こそう。このもう一つはユダのような人にとってはとりわけ重要である。ラカンの言うように「愛とは持っていないものを与えることである」とするなら、ここでのユダは、ある意味では男らしく、自分の持っているものを与えようとしている。それは「桃畠」、それも商人の彼の実家にある「ずいぶん広い桃畠」(144頁)である。「家も畠もある立派な青年」(149頁)たるユダは、ここで愛の見せかけすら捨てる。「持っているものを与えること、それはパーティであって、愛ではありません」(S8: 419/下243)。さあ、最大の用心をしなければならない。桃畠、マリアの香油壺、そして祭司長……我々は核心に近づきつつある。
第4章 言説分析──症例ユダ
1 分析の原則
単刀直入に言って、ユダの欲望をそそるもの、対象aは何か。そろそろ核心に迫ろう。それは最後の晩餐のイエスが見落としたものの中にある。それは自身の掌の中に握られていたもの、それの意味作用である。
その前に一つ、分析の大原則と言えるべきものについて、それはもう人口に膾炙したテーゼとなってしまっていて、私がここで強調力説したとて聞き流されてしまうかもしれないが、それでも幾つかの事柄を記しておきたい。まずひとは、ユダならばユダは、自らの欲望の対象をそれとして語ることはできないということ、語っているとすればそれは誤り、空虚なパロールとしてであること。それにもかかわらず、分析の唯一の媒体であり通貨であるものは──「情動的次元」「言葉以前のもの」などではなく──パロールであるということ、しかもそれは次善の策や迂回路などといったものではなく、パロールこそが第一級の場であるということ。そしてその理由は、最も重要なことだが、主体は、ユダならばユダは、その混乱し破綻しているかに見えるディスクールの中で、自らも知らない自己の実存の真理、自分がそれを語る能力も手段も持たないそれを、それと知らずに言い下とすということである。ただしその真理の子は必ずそれをそれとして認知する者の前で、その立ち会いのもとで産み落とされるのであり、これが転移とか、古くは産婆術とか呼ばれているものである。
ところで、以上の原則は、太宰がこのテクストを書くにあたっても同様に妥当するのではないだろうか。このことは彼の創作をきわめて困難なものにしたことが予想される。我々はここで視点を書き手の側に移して、先に述べた分析の原則すべてを逆手に取るなら、太宰は、ユダが真に望んでいるところのものを「これ」と彼に語らせてはならず──登場人物を過度に賢い存在にしてはならず──しかし確かにユダが切望している何ものかを、まさに無意識がそれを抑圧し加工するあの厳密なルールに従って規則正しく難読化し、そして最後に、そうして行間に匂わされたその微かな真理の顕現を、ユダ自身による大量の誤認によって埋め立てなければならないだろう。以下の引用を、ラカンが太宰について語っていると思い込んだ上で読んでいただきたい。
彼は、言わんとしながらも言葉に言い表し得ないものが〔…〕それでも現れ出てくることができるように、ディスクールを故意に組み立てているのがお解りになると思います。ある種の混乱、破綻、意図的な不調和によって、彼は、語ることのできないこと、あるいは語られるべきではないことを語ります。ところで、分析主体の言い間違い、言い落とし、緊張、反復もまた──非意図的に、知らず知らずのうちにですが──分析主体のディスクールがどのように組織化されているかを表しています。そしてそれが私達の読み取るべきことです。(S1: 269/下132)
これは太宰を買い被りすぎなのだろうか。しかし、太宰のユダは確かにこう言ったのだ──「あの人は、私の女をとったのだ。いや、ちがった!」(149頁)。太宰はこれを実際には一度も言い間違えることなく頭から後ろまで口述し、「言つた通り筆記して、そのままの文章であつた」のである。このことは太宰がユダについて何かを知っている者だと考えるに、少なくとも知っていると想定するに十分な証拠である。我々の作業もまた従って、太宰によって暗号化されたテクストを復号し、その鍵を探り当てる作業となるだろう。その作業に必要となるパロールの暗号化/復号の法則を以下で見ていこう。
* これは口述筆記を担当した美知子夫人の証言である。「「駈込み訴へ」は十四年の十二月、炬撻に当つて、盃を含み乍ら、全部口述して出来た。〔…〕机に向ふときは、頭のなかにもう、出来てゐた様子で、憑かれた人の如く、その面もちはまるで変つて、こはいものにみえた。「駈込み訴へ」のときも二度くらゐにわけて、口述し、淀みも、言ひ直しも無かつた。言つた通り筆記して、そのままの文章であつた。書きながら、私は畏れを感じた」(津島 1948, p. 10)。
2 〈他者〉の破壊──貶めと銀三十
……
(続きは書籍版にて)
文献一覧
太宰治「駈込み訴え」からの引用は新潮文庫版(『走れメロス』1967年、139–162頁)に拠る。また、聖書からの引用は聖書協会共同訳(日本聖書協会、2019年)に拠る。
- É = Lacan, Jacques Écrits, Seuil, 2006.(ラカン『エクリ』三分冊, 1972年・1977年・1981年, 弘文堂)
- É: 585–645 = Lacan, Jacques [1958] “La direction de la cure et les principes de son pouvoir”〔「治療の指導とその力の諸原則」〕.
- S1 = Lacan, Jacques [1953-1954] Les ecrits techniques de Freud, Seuil, 1975.(ラカン『フロイトの技法論』上下巻, 小出浩之・小川豊昭・小川周二・笠原嘉・鈴木國文訳, 岩波書店, 1991年)
- S2 = Lacan, Jacques [1954-1955] Le moi dans la theorie de Freud et la technique de la psychanalyse, Seuil, 1978.(ラカン『フロイト理論と精神分析技法における自我』上下巻, 小出浩之・鈴木國文・小川豊昭・南淳三訳, 岩波書店, 1998年)
- S3 = Lacan, Jacques [1955-1956] Les psychoses, Seuil, 1981.(ラカン『精神病』上下巻, 小出浩之・鈴木國文・川津芳照・笠原嘉訳, 岩波書店, 1987年)
- S5 = Lacan, Jacques [1957-1958] Les formations de l'inconscient, Seuil, 1998.(ラカン『無意識の形成物』上下巻, 佐々木孝次・原和之・川崎惣一訳, 岩波書店, 2005・2006年)
- S8 = Lacan, Jacques [1960-1961] Le transfert, Seuil, 2001.(ラカン『転移』上下巻, 小出浩之・鈴木國文・菅原誠一訳, 岩波書店, 2015年)
- S10 = Lacan, Jacques [1962-1963] L'angoisse, Seuil, 2004.(ラカン『不安』上下巻, 小出浩之・鈴木國文・菅原誠一・古橋忠晃訳, 岩波書店, 2017年)
- S11 = Lacan, Jacques [1963-1964] Les quatre concepts fondamentaux de la psychanalyse, Seuil, 1973.(ラカン『精神分析の四基本概念』上下巻, 小出浩之・新宮一成・鈴木國文・小川豊昭訳, 岩波文庫, 2020年)
- S16 = Lacan, Jacques [1968-1969] D'un Autre a l'autre〔『大文字の他者から小文字の他者へ』〕, Seuil, 2006.
- GW = Freud, Sigmund, Gesammelte Werke, Bände 1-18, Ficher Verlag, 1968–2006.
- GW5: 161–286 = Freud, Sigmund [1905] Bruchstück einer Hysterie-Analyse.(フロイト「あるヒステリー分析の断片〔ドーラ〕」渡邉俊之・草野シュワルツ美穂子訳, 『フロイト全集 6』岩波書店, 2009年, pp. 1–161)
- GW7: 379–463 = Freud, Sigmund [1909] Bemerkungen uber einen Fall von Zwangsneurose.(フロイト「強迫神経症の一例についての見解〔鼠男〕」福田覚訳, 『フロイト全集 10』岩波書店, 2008年, pp. 177–274)
- GW8: 78–91 = Freud, Sigmund [1912] Über die allgemeinste Erniedrigung des Liebeslebens.(フロイト「性愛生活が誰からも貶められることについて」須藤訓任訳, 『フロイト全集 12』岩波書店, 2009年, pp. 231–245)
- GW10: 402–410 = Freud, Sigmund [1917] Über Triebumsetzungen, insbesondere der Analerotik.(フロイト「欲動変転、特に肛門性愛の欲動変転について」本間直樹訳, 『フロイト全集 14』岩波書店, 2010年, pp. 335–344)
- GW13: 237–290 = Freud, Sigmund [1923] Das Ich und das Es.(フロイト「自我とエス」道籏泰三訳, 『フロイト全集 18』岩波書店, 2007年, pp. 1–62)
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