placet experiri :: 7

演技には二種類の型がある。一つは「らしい」振る舞いをすること。そう振る舞うのはまさに彼らしいので、人はその演技に気づかず素通りする。人を騙すのにも使えるが、ときに痛切な自己表現になることもあり、実存の全てがそうした演技に賭けられることもある(誰も気づいてあげられない悲しい試み)。これがアイロニーの型であり、もう一つがユーモアの型だ。つまり、らしくない振る舞いをすること。その人の普段の人格からは考えられないコミカルな振る舞いを見て、彼はおどけているのだと人は気づく。

アイロニーとユーモアとの違い、例えば風刺画と冗談との違いは何か。前者は暗く、後者は明るい感じがするが、それは芯を食っていない。この違いの本質は、アイロニーは理解できる人にだけ分かる(その一例として自分にだけ分かる)のに対して、ユーモアは万人に分かるということだ。言い換えれば、アイロニーを解さないものは馬鹿であり、ユーモアを解さないものは頑固である。

演技には意識と同じく私秘性(privacy)がある、つまり隠すのが自分の本心なので原理的には自分にだけしか分からない──と考えられることが多い。だがその私秘性は演技にではなく、演技の型の一つであるアイロニーに由来するものだ。理解する人を選ぶアイロニーが、(観客が分からないほど高度なギャグだからか、はたまたその個人の文脈に依存しすぎているからか)たまたま他の誰にも理解されないとき、演技は私秘的になる。だから逆に言えば、実存を賭けて、自己を殺害してなされた演技もたぶん誰かには通じている。お前は本心を偽っているな(そしてもう隠すべき本心すら見失ってしまったな)と見透かされて、彼は死ぬほど恥ずかしい思いをするのだろうか、それともこの破滅的な露見を救いとしてあらからじめ望んでいたのだろうか。

私秘性は演技の本質ではない。演技はただ本心ではないというだけで、その本心を隠すことは含まれない。そしてその隠し方は原理的なものではありえず、せいぜい机の鍵付きの引き出しにしまう程度のものでしかない。その鍵を自分が(そして未来の自分もまた)持っているなら、なぜそれが自分だけだと思うのか?