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歌うことを学ぶ

半年ほど前から歌を始めた。といっても別に習い始めたわけでもなく、カラオケや家中至るところで勝手に歌っているだけだ。これまで人生で歌を歌おうと思ったことなどなかった。しかし今では普通の人間に何周も遅れて、まるで真新しく物珍しいもののように、歌ばかり歌って暮らしている。

歌う曲は何でもいい。正確には、何でも良くなった。歌わずに聴くだけだったときには、そもそもこの世に存在を許せる曲が数曲しかなかった。聴き込んで耳が肥えていくうちに、許容範囲がピラミッドの頂上くらいの狭さになってしまったのだ。だからトランスやハウスばかり聴いており、ボーカルなどは楽器の一つにすぎなかった。ボーカル曲でもinstrumentalを好んで聴いており、クレジットに作曲家ではなく歌手名が出しゃばるなよと思っていた。

存在を許せる曲はどれも、この上なく深刻で物悲しい、静謐で内省的な曲だった。そうした真剣な音楽表現だけが胸を打った。歌を始めてすぐは、そうした数曲だけを何百回も練習していたし、幸い自分の声質もそういう曲に適していた。だがカラオケで歌うのに適していたかというと、決してそうではなかった。知名度がない、盛り上がらないというのもあるが、もっと根本的に場違いだった。そんなに真剣で痛切なものに対して、その場が、何よりも自分が、相応しくあることができなかった。歌詞が歌いあげている想念を込め返しながら祈るように歌いたかったが、いつもそうできるわけではなかった。音楽との距離を限りなくゼロにしようとして、どうしても少しだけ残る距離に居心地の悪さを感じていた。繰り返し歌うことが詩の意味をだんだんと薄れさせ、心地よいだけの音の並びへと風化させていくのも後ろめたかった。

あまりの真剣さに息が詰まってきて、羽目を外さなければならないと悟った。らしくない選曲をしよう、と。そんな曲を選んで真面目に歌ったら思わず失笑を誘うような、どこかかわいいところのある曲にしよう。そう思ってヒトカラで練習を始めたのだが、誰も見ていないのに顔から火が出るほど恥ずかしく、歌い終わると思わずジタバタしてしまう。でも祈るように歌った後のバツの悪さとは違う、心地よい違和感だった。中高生ほど身も心も若くないとか、女の子がかわいく歌うべきとかいう理由で自分が歌うには相応しくない曲。そういう曲と自分との距離を楽しみながら歌うことを覚えた。どんな曲なら戯れに歌えるか、あれこれ選ぶのも楽しい。この曲なら悪ふざけできそうだ、でもこの曲はちょっと悪辣すぎてドン引きかな、とか。ユーモアは本心でなければ何でもいいわけではない。まずは自分がどういう人間なのかを知り、それと遠すぎない距離を作ること。

とはいえ、自分がどういう人間かというのはしょせん自己規定にすぎない。例えば、自分がふざけた曲を歌うのはらしくなく、痛切な曲ならお似合いだというのは本当だっただろうか。自分はそんなに深刻な人間だったか? それに、たとえ冗談のつもりだろうと、その曲を自ら選んで現にふざけ倒している以上、自分はすでにそういう人間でもあるのではないか。深刻な顔で祈りを捧げていたことの方が、実はらしくないことだったのではないか?(そもそも何らかの芸術作品が自分の存在に相応しいなどというのはおこがましいところがないか。あるいは、等身大の楽曲なるものは存在したとしてもただのガラクタではないか)

歌で遊び始めてから自分のことがよく分からなくなった。自分はこういう人間だと規定して、すると今度はそこから逃れていく方の自分になりたくなって、そうやって自分と鬼ごっこをしている。そうして一つだけあった好みと人格は解体して、複数の人格になるわけでもなく、ただその時々の気分へと分散していった。しかし全体として見れば少し陽気な人間になった気がする。正確に言えば、陽気な気分でいることが多くなった、ということか。