砂時計と時間の流れ
しかし砂時計は時間の流れを見せてはくれなかった。実際、砂時計の本来の使い方は落ちている砂を眺めることではない。砂の残量を見るのだ。ふと見やるとまだ砂はたっぷり残っている。また一瞥するともう砂は残り少ししかない。これが砂時計の使い方である。そしてこの二つの一瞥、二枚のスナップショットの間に流れているものこそが時間である。
その一瞥の中に、砂が現在進行形で落ちている、という動きが含まれていても構わない。だが、その運動も含めて一枚のスナップショットに書き込まれてしまう。ちょうどiPhoneの動く写真(Live Photo)のように。砂が落ちる運動をじっと眺めているとき、むしろ時間は止まっている──目を離して、次に一瞥するまで。時間とは流れるものではなく隔てるものである。
そもそも15分計にもなると砂がほんの僅かづつしか落ちていかないので、残りの砂が減っているようには見えない。だから正確には砂が「落ちている」と言うことにすら先入見が入っている。か細い砂柱が立っていて、よろめいているのが見えるだけ、本当は。
だが1分計は違った。太い砂柱でぽっかりと空いた穴に、残りのピンク色の砂がどんどん吸い込まれていく。そのとき、自分の生活の諸々の瞬間、無数のスナップショットたちが、ものすごい速さでその蟻地獄に吸い込まれていくのを見た。それは走馬灯にも似ていた。
そのとき初めて時間の流れを見た。正確に言えば、知覚したのではない。砂の一粒一粒を経験されてゆく出来事に見立てることによって知解したのだ。