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俳優の逆説と稽古の逆説

演劇には、人をそこへと否応なく没入させ、波立つ情動へと縛りつける魔力がある。にもかかわらず、その魔力からひとり自由な存在がいる──それが役者である、とディドロはいう。ディドロの演劇論は、観客と役者の間に鋭い非対称性を観て取る。彼はそれを「感じやすさ(sensibilité, 感受性)」の有無によって説明する。舞台上の幻にあられもなく釘付けにされる、感じやすい観客。そしてそれをいささかも感じることなく、振る舞いの模倣と計算によって遂行する冷めた役者。観客が共に感じさせられ、共に享受させられている苦悩、それゆえに受け手ではなく送り手の方においてこそ最も厳しいかに思われる苦難を、そのじつ役者はまったく感じていない。この大いなる同情=共苦(compassion)における、苦の原本が実は空っぽであること。これがディドロのいう「俳優の逆説」であった。

彼らの冷たい頭脳を作り出すのはおそらく、稽古である。彼らは同じ場面、同じ台詞を何十回も何百回も反復練習する。よく考えてみるとこれは異常なことであり、通常の言語使用のガイドラインから──その気が狂った真面目さゆえに──はっきりと逸脱している。確かに言語というのは「こんにちは」「お願いします」などといった再利用可能な部品から成るものであり、その反復可能性こそが有意味性の源泉ではある。だが、誰がそれをいっぺんに何百回も繰り返せと言ったのか。そんなことをしたら言葉は擦り切れて自壊してしまうではないか。例えば自分がマンモス大学の学長になって、学部ごとに行われる入学式でそのつど同じ式辞を述べることになったとしよう。何が起きるか。三回目くらいにはもう全然気持ちがこもらなくなって、五回目くらいには、俺は一体何をしているんだ、そもそも何のためにこうして生きているのか……と自問しているだろう。台詞がもつ意味はもうすっかり抜け落ちて、意味作用の外側でただ音声を発するだけになる。ところでそれは役者の初回公演の状態である。彼らが冷めていないはずがあろうか。

ところで、役者でも学長でもない我々が、この特殊な反復体験をできる身近な例がある。それは歌を歌うことだ。一つの曲を一回きりしか歌わないということはまずない。いつものお気に入りの曲を歌ったり、あるいはそれを練習しながらいくども口ずさむとき、ひとの同じ口から正確に同じ文字列が何度も出てくるという珍しい現象が観察される。こんな事例は他にはお経を読むことくらいしかない。そして実際、何度も練習した歌はお経に似てくる。つまり、歌詞の意味をしだいに考えなくなっていくのだ。そう考えると、役者や歌手はあまり良い観客とは言えないことが分かる。とはいえ、彼らは良き観客である必要はない。いやむしろそうであってはならない、というのが「俳優の逆説」の帰結ではないだろうか。物語の筋立てを注意深く追いかけ、それが表現する主題を理解しようと努める観客。それを役者は考えなしに演じる。深いことは何も知らない歌手が、実に見事にその主題を歌い上げる。演者というのは情動はおろか、およそ意味一般に無頓着なのだ。


ディドロの俳優論にはその範例として二人の対照的なモデルがいた。一人は典型的な「没入型」の女優であるデュメニルだ。彼女はここぞという場面での泣きの演技で卓越しており、そのあいだ登場人物を完全に憑依させていたという(それ以外の場面では大根役者だった)。もう一人が、これまた典型的な「演技型」の女優、クレロンである。こちらは入念な稽古によって台詞はおろか自分の一挙手一投足まで暗記し、序盤もクライマックスも均等にムラなく演じたという(このあらゆる瞬間における均等さは瞑想にも似ている)。

この対照的な二人の名優をもとに、ディドロは二つの演技法を対置する。すなわち、没入型か演技型か、という二者択一である。そしてもちろんディドロは演技型のクレロンの側に立って、常識的な通念──素朴な考えはいつも没入型を支持する──を攻撃しているわけである。実際、クレロン自身が書いた演技の手引書(ディドロはそれを読んでいないのだが)もまた技術と研究によって役を作ることを勧めており、やはりディドロの俳優論に合致する。

ところがクレロンはさらに進んで、ディドロが予想だにしなかったことを言う。というのは彼女は、そうした役の研究と反復練習が何のためにあるかと言えば、それは「自分であることをやめ」、「それぞれの登場人物に同一化するため」(p. 27)だというのだ。彼女はこう述べている。

私が今しがた言ったすべてのことにおいてはまだ、最も恐ろしいことが言われていない。それは、最も悲しい出来事に、また最も恐ろしい要因に満たされ続けることの不可欠な必要性である。それを自分のものにしていない者は、自分の暗唱課題〔leçon〕を繰り返す小学生でしかない。しかし、それらを自分のものにした者、つまりその涙が深い研究を、彼の研究の悲痛なものを、そして彼自身の存在の忘却を確証している者は、確かに惨めな存在となるのだ。(Mémoires d’Hyppolite Clairon, p. 29)

これは紛れもない没入型の演技論である。悲劇役者は実際に悲しく、また恐ろしい出来事に継続的に晒されざるをえず、だからこそ強靭な体質なしでは到底やっていけない。とはいえより正確には、これは優れた悲劇役者にのみ特有の苦しみだと言わなければならない。というのも、そうはいっても自分のものではない悲しみに実際に満たされるためには或る技術が必要なのであり、それを自分のものにしていない役者には──つまりディドロが推奨するような無感性な役者には──これは無縁の苦痛なのである。演技型の役者が勧める没入と自己忘却のすすめ。かくしてディドロが仕立てた単純な二項対立はだめになってしまう。

とはいえ彼女は自他ともに認める技術の人であって、観客と一緒に劇にのめり込むようなことは決してない。だとすると、彼女がいう「役への同一化」というのは、我々がふつう理解しているものとは何か異なるものなのではないか。熱狂的でない没入、陶酔なき自己忘却、そうしたものがありうることを示しているのではないか。

そして、まさにそうした熱狂と陶酔を削ぎ落とし、それによってかえって純化された陶酔をもたらす力が、稽古にはあるのだろう。陶酔を削ぎ落とされた反復はなお、依然として陶酔であることをやめない。ここにはもう一つ、俳優の稽古の逆説がある。稽古はなぜ、「暗唱課題を繰り返すだけの小学生」にとどまらず、役への同一化をも可能にするのか。というのも反復は、言葉や行為がもつ意味をしだいに削ぎ落とし、擦り減らしていってしまうはずだからだ。それなのに稽古はなぜ、あの学長のようにうんざりし、吐き気を催すことなく、やはり依然として陶酔であるものをもたらすのか。

参考文献

  • D. ディドロ〔1830〕『逆説 俳優について』小場瀬卓三訳, 白水社, 1941年.
  • Clairon, Mlle. (1799) Mémoires d’Hyppolite Clairon, Et Réflexions Sur l’Art Dramatique〔『ヒッポリト・クレロン回想録、演劇芸術への省察録』〕. PDF
  • 武田清(2011)「ディドロに演技論を書かせた女優たち」『文芸研究』(114): 157–172. PDF