ファウスト博士の嘆き
以前私はこう書いた。「ある到達点を超えると、人は自分が書きたいもののむしろ周辺で、半ば書かされているように書き、分かりやすさやポップなものへのギリギリの妥協を始めなければならない」(「傑作とその後遺症」id: 19)。しかし、この文の後半は今や誤りでなければならない。そのような妥協はアドリアンにおいて結局のところ何も産まなかったのだから。本当に言いたかったのは、「半ば書かされているように書き」というところだった。それは音符の孤絶を避けて繋がりを求めることであり、また同時に、典礼の時代において作曲家を保護していた「わたくしめが書いたのではありません」の隠れ蓑を被り直すことでもある。しかし今日、因襲とも和解せず大衆にも妥協しないで、どうやってそれを?
ここで初めてバイセルに再登場してもらわねばならない。彼の真価は決して音楽の伝統、因襲の度外視にあるのはない。その点は他の道も同じだった。バイセルはそのつどの楽曲の内容を無から創造したのではなく(それはベートーヴェンである)、それの形式を、音楽理論を無から創造したのである。この違いは大きい。バイセルの理論は稚拙といっていいほど簡素なものだったが、それは彼の能力の限界であると同時に半分は故意による。というのも、それよりはるかに高度に進歩したわれわれが知る和声の理論は、その複雑さゆえに「どの進行が禁じられているか」をしか語らず、この位置にどの音符が一つ来るべきかを決定する力を持たないからだ。だから、法則は単純素朴であるほどいい。バイセルの素朴さの道とはそれゆえ、法則的な厳格さの道に他ならない。
アドリアンはこの厳格作法の道をさらに極限まで押し進める。彼はもはや音楽理論など作らない。その一つから多くの曲を産み出せる一夫多妻的な法則は結局のところ、その個々の曲をそんなに強く縛らないだろう(同じ理論に従っているなら、なぜ他ではなくこの曲が書かれねばならなかったのか?)。それに、そうして打ち立てられた一般法則がふたたび因襲に堕する、というのが音楽の歴史というものではなかっただろうか。個々の一曲から抽象できる程度の緩い法則性は、人々に理解され模倣され、後世の人々に影響を与えてしまう……そして再び腐り落ちて因襲になってしまう。
だから、理論よりもさらに素朴かつ厳格な形式があらねばならない。その一曲だけを縛りその一曲限りで燃え尽きてしまうような、理論ならざる形式──それは曲の主題である。作曲はこの一なる法則としての主題の演繹、すなわち変奏とならなければならない。「その中には非主題的なもの、常に同じものの変奏であることが立証され得ないようなものは何物も存在しないような技法、あるいは様式の《魔法陣》〔…〕。この様式、この技術は、いかなる音をも、全体構造において動機としての機能を果たさない音はいかなるものをも許さないという話だった」(下: 240, XLVI)。
特筆すべきは、それによって楽曲は展開やそのダイナミズムを手放すということ、手放してもよいということだ(ダイナミズムというものはおよそ主観的なものではなかったか?)。
この巨大な《嘆き》(これはほとんど一時間十五分つづく)は、本来は非力動的であって発展がなく、ドラマを欠き、水に投げ込まれた一つの石によって次々に広がって行く同心円のようにドラマを欠き、いつまでも変わらない。巨大な、嘆きの変奏曲作品──こういうものとして、歓呼の諸変奏を持つ《第九交響曲》のフィナーレとネガティーフに親近である(下: 241, XLVI)
もちろん主題なら昔からどんな曲にも存在する。ただしそれは、主題同士の交代や終結部(コーダ)に向かっていく動性として、曲の展開を構成するためだった。だから主題は登場したと思ったらすぐ身を引いて、別の主題へと場所を譲ってしまうのが常である。ああ、しかし、なぜそんな恣意が許されるのだろうか? 主題よ、お前を聴くためにこうして曲をかけたのに、なぜそんなにも疾く去ってしまうのか? もはやドラマは、冒険は、物語は要らない。それよりも聴かせてくれ、いつまでも変わらない、一つの同じものを!
こうして音符の孤絶は克服される。因襲や大衆といった外的な繋がりではなく、音符はただ前後の音符と内的に繋がれ、楽曲全体とのしがらみにのみ囚われることによって。かくして「自由な音はもはやまったく存在しない」(下: 240, XLVI)。にもかかわらず彼はそれによって──因襲の重石によって窒息しかけていたはずの──全き創作の自由を獲得する。それは、この息の詰まるような法則的拘束に服さないものが、そのしがらみを逃れた絶対的に無拘束なものが、ただ一つだけあるからだ。すなわち、その当の法則それ自身である。その主題的法則ただ一つだけを作曲者は無から創造することによって、しかし結局はその法則によって楽曲全体もまたすでに創造され終わっていることによって、その曲は全体として、作曲者の創造性の、したがって自由の産物となるのだ。ここではベートーヴェンとは逆に、客観的なものが最後に主観的なものへと道を譲るのである。孤立した音符はなく、しかし楽曲全体はそれによって音楽史からまったく孤立している。しかしその中を覗いてみるとまったくの客観性が成立しており、しかし一つの曲に自閉したその客観性は何にも影響を与えない。
そしてまたこの厳格作法は副次的に、或る自己韜晦的な、仮面の効果をもたらす。自分以外のために曲を書かされていた、あの典礼の時代の音楽家と同じように。アドリアンの最期の作品「ファウスト博士の嘆き」はオラトリオ(キリスト教的な題材を歌詞にもつ合唱曲)であり、これは優れてバロック的な形式なのだが、彼はそれを単なる聖譚の再現ではなく、彼自身の受難の表現へと換骨奪胎する。にもかかわらずそれは依然として、書かされたように書かれた、一篇の仮象であることをやめない。だからこそ彼は、心の底から発せられた嘆きをかつてなく真摯に、彼の呪われた本性であるパロディをいささかも介在させることなく、ありのまま表現することができたのである。なんという逆説だろう。この誠実さは「私はそれを計算したにすぎません」の自己韜晦によって生じるのだ。しかし考えてもみてほしい。もし心の底からの苦悩の表現を、一音一音、霊感のプールに手を突っ込んで取り出してきて、自らにナイフを突き立てて絞った血によって五線譜に書かねばならないとしたら、そのような表現はまったく立ち行かなくなってしまうだろう。ここにこそニーチェの詩人問題が、いや、ニーチェという詩人の問題がある。すなわち、ひとは真理を語るためにこそ、より多くの仮象を必要とするのではないだろうか。そしてまた、アポロンとディオニュソスの二元論がやがて破棄されねばならなかった理由もここにある。というのもディオニュソスとは野蛮と狂気の象徴である以前に、仮面を象徴する神なのであった(cf. 薗田 1990, p. 42)。
だから私は、「感情の人工的な(にせものの)昂揚によって空虚な形式の遊戯としての芸術に感情の実質内容を付加しようとする」(松浦 1961, p. 90)といった型のアドリアンの自己理解を誤謬、いや欺瞞だと見なす(どうしてアドリアンのつねに「防衛的な告白」(上: 238, XV)を文字通りに捉える必要があろうか?)。事態は逆であって、「善であり高貴であるもの、ひとが人間的と呼ぶものは……存在してはならないのだ」(下: 226, XLV)というあの真正の悲嘆を、おびただしい吃音に陥ることなく表現するためにこそ、逆説的に、芸術という形式の遊戯が存在するのである。しかしこのことはある究極的な不幸と隣り合わせである。それによってアドリアンは、もはや仮面の下から韜晦的に語ることしかできない最高度の絶望を、生身の口から語ることのできない絶望を、生身の人間として背負うことになるからである。
最期にアドリアンは、関わってきた人々を集めて、自らの犯してきた罪──少なくとも彼自身が罪だと感じざるをえなかったもの、すなわち自らの芸術的創作の過程のすべて──を告白する。しかしそのような告白は、もし芸術的表現というものが完全なものであるなら、まったく不要だったはずではないか? それは彼の最後の作品において余すところなく表現されていたのだから。すなわち、彼のファウスト・カンタータにおいても、悪魔と契約して果てしない知恵と魔法を得た主人公は、その約束の24年間が終わろうとするときに最後の晩餐を開き、仲間たちに悔恨を込めて自らの死の運命を告白し、そして約束通り地獄に堕ちる。なぜ同じことを二度も繰り返して言う必要があったのか、しかも今度はあれほど必要とされていた仮面を取り去って。
それでも彼は最後に「同じ人の子としての心からの告白」(下: 258, XLVII)をしたかったのである。しかし彼の告白は誰にも届かなかった──結局、ありのままなど見たくはないのだ、誰も。たとえヴェール越しに垣間見えるそれを誰もが見たいと欲したとしても、その現物は必ず、人をして深く幻滅せしめるものである。生身の口から、肉声によって、しかも音楽という形式で縛ることすらせず。それは彼が最も避け続けてきたことだったはずである。
厩舎の熱という点では、人間の声は、無機の楽器の音なんかとは全然比較になりゃしない。──それはほとんど女陰と言ってもいいだろうな。〔…〕音楽の厳格さというか、それともその形式の道徳性と言ってくれてもいいが、それは現実の音のもつ魅惑の言い訳をする役を果たさなくてはならないんだ。(上: 124, VIII)
だから彼にとって音楽とは徹頭徹尾、「愛」から「動物的な熱を抜き去る」ことだった。とはいえ、最も避け続けたものとは最も誘惑され続けてきたものでもあるのだろう。だから彼は最後の最後にもう一度、最も大きな誘惑、自己告白の誘惑に負けたのである。それゆえアドリアンは、最も冷徹で非人間的であるべく描かれた彼は結局のところ、作中で誰よりも人間味あふれる──それは滑稽と痛々しさのことだ──人物だった。そうして彼は禁欲的冷却を、「言い訳」を投げ捨ててひたすらに赤裸々に語る。彼の親友ゼレヌス・ツァイトブロムですら堪らずこう漏らす。「何も語らないでしかもすべてを語る音楽が言葉の明白さよりもすぐれている点、いや、直接の告白のもつ暴露的ななまなましさと比べて芸術一般のもつ保護的な無拘束さを、私はこのときほど強く感じたことはなかった」(下: 260, XLVI)。
全てを告白し終えたアドリアンは、突如、麻痺性ショックを起こして、ピアノを抱きかかえるように昏倒し、そのまま廃人となる。周囲が、彼の親友すら驚き呆気に取られる中で、すべてを予見していた一人の女性がいた。アドリアンに住処を提供し、母親のように生活を支えてきたシュヴァイゲシュティル夫人は、呆然とする周囲を押しのけて、真っ先に彼を抱き抱えて言う。
みなさん一緒に出て行ってください! みなさんにはまったく理解がおありにならないんですね、みなさんの町のかたがたには。ここでは理解が必要なのです! このかたは、永遠の恩寵のことをずいぶんお話になったのですよ、この気の毒なかたは。恩寵で十分なものかどうかは、私にはわかりません。でも、よろしいですか、ほんとうの人間的な理解なら、これは何に対しても十分なのです!(下: 271, XLVI)
「ほんとうの人間的な理解」ということで彼女は何を語ったのだろうか、それは最後に考えよう。とはいえ確かに、聴衆の無理解の描写はひどく生々しいものだった。聞き手はまず話を何とかして話を逸らそうとする。聞き手は彼の告白が芸術家にありがちな自己神秘化だと考えようとする。聞き手は彼が詩人よろしく美しい絵空事を語っているのだと思い込む。そのどれでもないと分かると、ひどく驚き、耳を塞いで拒絶の言葉を述べる……とはいえ、自己神秘化──それはまったくその通りではないだろうか! むしろ自己劇化と言った方がいいだろう。彼は自分のしてきた行為の全てをこの最期の時点の意味づけによって遡って上書きし、かつ、全てをそのつど自覚的に選んできたかのように語る──自ら進んで病毒に感染した、それは作曲の困難を打開するための悪魔との契約を意図していた、あの愛らしい誘惑者のヴァイオリニストも自分が殺してしまった……それらはすべて事後的な思い込みであり、偽善の逆の偽悪であり、ニーチェの発狂に理由を探すのと同じ、人間的な意味づけにすぎない。事実はただ、彼はそのつど誘惑に無様に屈しただけであり、伴侶にしようとした女性には普通に振られただけであり、ニーチェはただ、原因はあれど理由はなく発狂しただけである。もちろん、この抽象的小説が辛うじて物語の形式を保つことができているのは、このアドリアン自身の自己作品化の線に乗っかることによってであり、そのおかげである。しかし読み手も、そして芸術家自身も、しばしばこの懸隔の存在を看過し、仮面を素顔に圧着して、超えてはならない一線を踏み越える。
それにしても……最も冷徹で聡明な者として描かれてきたこの人物ですら、結局は苦悩と絶望の末にこの自己作品化に手を染めるのか。その自己物語を語ることなく黙って死んでいくことができないのか。もしそうだとしたら私は、正直に言って、それをどうしても嗤わずにはいられない。呪われたことだが、苦悩というものは本当に馬鹿馬鹿しいと感じる。一人の人間や特定の出来事を憎むことができず、それが人生や世界全体を覆っているかのような針小棒大さに、思慮のない抽象化に笑いが込み上げてくる。百遍でも言いたい、その苦悩は偽物であると、それは演じられた絶望にすぎないと。なぜお前はただ痛むだけは飽き足らず、そんなに痛がってみせているのか? だからお前は知っている、お前の問題を解決する代わりに単に解消することの容易さを。
こんな助けの糸をアドリアンに垂らしてみよう(「最後の誘惑」だ)。君を長らく苦しめてきた病毒を今、この時点から取り去ってやろう、愛の禁止という契約も取り消そう。お前は今まで大いにその病毒の力を利用して創作をしたかもしれないが、その借りも返さなくていい。お前はもはや自由の身だ、寿命きっちり生き、理解ある伴侶でも得て、あとは幸せに暮らして死ぬがよい……気高い彼はこういう誘惑にはめっぽう強いだろう。悪魔め、救済は要らないと言ったはずだ、それはぼくの「完全な痛悔(contritio)」(中: 142, XXV)からだ──そう彼は言うだろう。だって、そんなふうに助けられたら、お前の大事にしている苦悩とやらが、破滅というそれ自体物語的な救済が、台無しになってしまうもんな! もっと上級の悪魔ならば、問答無用で、彼の病気を治してしまうだろう。彼にはもはや破滅することすら許されない、最後の晩餐を開いておきながら後には何も起きない。間の悪い、不恰好だが幸福になった余生を送りながら、彼は初めて本当の意味で苦悩するのだろう。あのときの苦悩は一体何だったのか、こんな風に、ただ単に助かることもできてしまうというなら(救済と単に助かることの区別がお分かりだろうか)。あれほど心から救済を望み、あるいは全実存を賭けて破滅を選んだ私の苦悩には、最初から意味などなかったのではないか?──そうだ、やっと分かったのか。そしてそれこそが今、お前に対して私が感じている馬鹿馬鹿しさに他ならない。
このフモリストの目には涙が浮かんでいるのが分かるだろうか? 生と苦悩の嘲笑者はいつも、どういうわけか、自分が笑いの対象としている苦悩の意味をくまなく知ってしまっている。それはなぜか?
キルケゴールが言うところのユーモリスト(フモリスト)とは、自らの苦しみに対する本気さから飛躍してしまった精神を意味する。有限的な中身を持つ苦しみであれば真面目にも受け止められようが、それを超越した苦しみの全体性、中身を持たない苦しみなど笑うしかない。
だからこそ、フモリストは宗教的領域の一歩手前で引き返すことになる。そこから先の領域では彼は本気になることができない。苦しみの全体性という言葉を聞くと何故か笑いがこみ上げてくる。人生全体を苦しみとする考え方にも笑わずにはいられない。だがその不真面目さは、彼の有限的な苦しみに対する真面目さの裏返しなのである。
── なんでもない (@EllerJun), October 25, 2019
しかしフモリストは、この嘲笑という杭を以って自らを地上的なもの(自らの有限的な苦しみ)へと縛り付けようとし、この杭だけは自分に刺さったまま抜こうと欲しない。なぜなら「嘲笑は自らの苦悩への誠実性の証だ」という原則のうちに安寧を得ることほど罪深い(=嗤うべき)ものはない、と彼は感じるから。フモリストはこの点において、彼が嗤おうとする単純な苦悩者によく似ている。しかしもし、この同型性そのもの(とその滑稽さ)に気づくことができたなら──「この杭を抜きたくない」という自己の根底から発した切望がそれ自体一つの誘惑であったことに、苦悩に対する嘲笑がそれ自体、苦悩という筋書きの中にあらかじめ書き込まれていることに気づけたなら──そのときひとは、苦悩とはむしろいっぺんにその両方であることだと知るだろう。苦悩、そしてそれに対する嘲笑、それが苦悩である。自己、そしてそれに対する関係、それが自己であるように(「自己とはそれ自身に関係する関係である」)。だから私にはどうしても、アドリアンの苦悩をその根底から笑い飛ばすことができない。笑えないほど彼が真剣だからではなく、むしろ彼が真剣ではないから、彼もまた同じように自分の苦悩をよく嗤っただろう、その彼と一緒に嗤うことになってしまうからだ。嘲笑もまた転移と同一化の一形式である。嘲笑とはより心のこもった同情にすぎない。
この「いっぺんに両方」をその全体において捉えることこそが、シュヴァイゲシュティル夫人の語った「ほんとうの人間的な理解」だったのではないか。しかしその理解を、この伝記小説の語り手であるアドリアンの親友、ゼレヌス・ツァイトブロムもまた、実は持たなかったのではないか。だからこの伝記には、アドリアンの笑いが何よりもまず自分自身に対して向けられたであろうこと、それどころか彼の笑いがことごとく自傷的なものであったことがまったく抜け落ちている。その代わりにツァイトブロムは物語る。アドリアンの痛ましい破滅への道を一歩一歩確かめ、共苦しながら語り直す。しかしなぜ、そのようなものをこそ彼自らが最も嗤わなかったと考えることができようか。音楽すら耐えられないのに、物語など耐えられるはずがあろうか? その彼が最後には物語に頼らざるをえなかったことのおぞましい必然性も、しかしその生身の告白ですらも決して素顔そのものではなく、絶えず仮象の効果に支えられつつ可能になっていたことも、この伝記作者には理解できないのだろう。この物語主義者には!
シュヴァイゲシュティル夫人がアドリアンに対して持っていた理解とはどんなものなのだろうか。それは分からない。なにしろ彼女の名前は„Schweigestill“(沈黙)というのだから。しかし少なくとも、夫人は決してアドリアンの言葉を文字通り受け取りはしなかっただろう。「わたしはあの男に何の罪も見いだせない」(ヨハネ福音書 18: 39)と彼女は言うだろう。事実、彼は(本物のファウスト博士とは違って)本当は何の罪も犯していないのである──あら、そんなことも分からなかったの? 「それはほんとうに簡単なことなんですよ」(中: 279, XXXII) んでしょ?──それなのにこの伝記作者は、彼の告白を象徴的に解読する代わりに、文字通り自分の罪によって十字架にかけられた者として、生まれた時から破滅を運命づけられた罪人として彼を描いた(そして一般読者も研究者もこの小説をそうやって読む)。この小説の中で罪と呼べるものは、私にはこれだけである。しかしこれこそが、人類史上最もむごたらしく非人間的な罪の類型なのであった。
彼らにしてみれば、万事が必然的であり、意味、条理〔Vernunft〕、最高の条理をもっているのでなければならなかった。弟子の愛情とは偶然を知らないものである。(ニーチェ『アンチクリスト』§40)
小さな教団の狂った理性〔Vernunft〕は、この疑問〔なぜ師は十字架上で死なねばならなかったか〕に対して、まことに恐ろしいほど不条理な回答を見つけ出した。〔…〕罪のための犠牲、しかもこの上なく残忍で吐き気のする形式における犠牲、有罪の者たちの罪のために、無罪の者が受ける犠牲! 何というむごたらしい異教主義!(Ibid., §41)
キリスト教の歴史とは──ことに十字架上の死以後は──ある根源的な象徴主義を一歩一歩しだいに粗雑に誤解していく歴史である。(Ibid., §37)
(それゆえ、キリスト教に逆らってキリストその人を読むように、ツァイトブロムが再演する物語(旋律)から遡ってアドリアンのなまの苦悩(不協和音)を聞き取ることを、私は勧めたい)
だからこの伝記作者は最後に、この夫人に厳しく叱責されねばならなかったのだ。夫人の「みなさんにはまったく理解がおありにならないんですね!」は、彼の告白に耳を塞いだ聴衆にではなく、彼の間近に立って見守っていた者たち(人文主義者のツァイトブロム、ユーモリストのシルトクナップ、侍従の女たち)にこそ向けられていたのである。彼らはいったい何のかどで叱責されたのか?
シュヴァイゲシュティル夫人は、われわれよりも離れたところに立っていたのに、近くにいながらなぜか一瞬彼を介抱するのをためらったわれわれよりも早く、彼のそばにかけよった。彼女は意識を失った彼の頭を持ち上げ、母親のような腕にその上体を抱いたまま、わきでいまだに呆然と部屋の中に突っ立っている連中に向かって叫んだ。(下: 271, XLVII)
分かるだろうか……彼らの罪、それは驚いたということだった。それはこの理解の人においては一番あってはならないことだった(「驚くというのは私と夫の流儀にはないことである。そして実際たいていの人が驚きすぎだから」中: 155, XXVI)。しかし、彼らはいったい何に驚いたのか?
彼ら側近の者たちは聞いたのだ──今まで間近で、しかし衝立越しに見てきた彼が最期に発した、歌にも叫びにもならない「耳に永遠にこびりついた嘆きの音」を。しかしまさか、彼らはそれを初めて聞いたと思ったのではないだろうか? むしろそれは今、ようやく鳴り止んだところではないか。あるいは、ひとはそこに劇的な終結部を見、そして慄えたのかもしれない。ああ、しかし、じゃあ聞こえていなかったというのか? 「ドラマを欠いていつまでも変わらない、巨大な嘆きの変奏曲」が!
幻視でもなく幻滅でもないような理解を探している。共苦でも嘲笑でもない、いささかも同一化を含まないような、あるまったく別の関係の形式を。決して驚かず決して幻滅しない、ヴェールの見えない眼を。ロマンティシズムの反対物ではないような真のリアリズムを。
《われとともに目覚めてあれ!》──アドリアンはこの作品において神人キリストの苦難のこの言葉を、おそらく孤独でより男性的なもの、誇らしいもの、すなわち彼のファウストの《落ち着いて眠ってほしい、そして何にも気にとめないでもらいたい!》という言葉に変えたのであろう──しかし人間的なものは、助力を求めるのではなくても同じ人間に一緒にいてほしいという衝動的な欲求は、《私を見捨てないでくれ! 私の最期のときに近くにいてくれ!》と言う懇願は、やはり残っているのである。(下: 249, XLVII)
アドリアンが自らの願いを託してオラトリオの主題音型に据えた、「落ち着いて眠って欲しい、そして何も気に留めないでもらいたい」とはどのような願いでしょうか──こんな設問を最後に考えてみよう。ただし、文章全体を踏まえて、文中の手がかりのみを用いて答えよ(なお、原文は末尾に記した通りである)。私ならこう読む──
私に触れないで下さい。私の病苦を貴方にうつしたくないから、貴方の耳から毒を注ぎ込みたくないから。それが私には最もつらく感じられるからです。
私が苦しんでいるのを見ても、手を差し伸べないで下さい。それよりはむしろ、心の底から理解して、上から見下ろして馬鹿にして、そうやって根底から救って下さい……
……いいえ、やっぱりメフィストの役は自分一人でやります。だから貴方も、私の苦しみを一緒になって見ようとしてはいけません。
それでもどうか、遠くに行かないで下さい。私を見かけたら、どうでもいい話をして笑わせてください。そして私が頽れているのを見つけたら、私に気づかれないようにそっと、抱きかかえて下さい。
さて、最後に私の親しきお願いは、諸君がベッドに行き、安らかに眠り、たとえ家の中に騒がしい物音や大騒動を聞いても、何も気にせず、驚かないことです。諸君には何の危害も起こりません。またベッドから起き上がらないで下さい。そして私の身体が死んでいるのを見出したら、地に埋めさせて下さい。(「ヨーハン・ファウスト博士の物語」286頁)